マークス・ヴィッセン&ウルリッヒ・ブラント「狼煙としてのリュッツェラート」


「狼煙としてのリュッツェラート:気候危機との闘いにおいてなぜ変容的な戦略が必要なのか」

マークス・ヴィッセン、ウルリッヒ・ブラント

『ブレッター』2023年2月号

[訳者まえがき]

リュッツェラートはドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の西部に位置する村で、ライン川沿岸の褐炭露天掘り山である第二ガルツヴァイラー鉱山の南西に位置している。多国籍に事業を展開するドイツ第二の電力コンツェルンであるRWEが地下にある褐炭を採掘できるようにするため、この村では数年前から住民の立退きと住宅の撤去が進められてきた。

ドイツでは遅くとも2038年に石炭火力を撤廃することが決定している。にもかかわらず新たな褐炭採掘のために村の立退きが許されたのは、連邦政府、州政府とRWEの取引の結果であり、それによってRWEは、他の5つの村の立退きを諦めることと石炭火力からの撤退を2030年に前倒しすることを引き換えに、リュッツェラートでの操業を許可された。しかし本文中でも触れられているように、そもそもすでに許可されている採掘区域だけで2030年までに必要な石炭を十分に上回る埋蔵量が確認されており、リュッツェラートの新規採掘には正当性がないことが繰返し指摘されてきた。

リュッツェラートの撤去反対闘争は昨年2022年から今年の1月にかけて大きな盛り上がりをみせ、ドイツ各地や国外からも気候運動家が集まって抗議活動を行った。今年の1月に連日行われたデモに数千人が参加したほか、樹上や櫓のうえでキャンプを行ったり、地下四メートルのトンネルを掘って立てこもったりといった多様な戦術によって抵抗が試みられたが、州政府によって千人以上の警官が投入され、同月中に撤去が完了した。

記事の著者のマークス・ヴィッセン(Markus Wissen)とウルリッヒ・ブラント(Ulrich Brand)はそれぞれベルリン自由大学とウイーン大学で社会学と政治学を教えている。二人が共著で書いた『地球を壊す暮らし方:帝国型生活様式と新たな搾取』(中村健吾、斎藤幸平監訳、岩波書店、2021年)は日本語にも翻訳されている。両者の経歴や研究は同書の監訳者あとがきに詳しい。■

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リュッツェラートは消えない(Lützerath bleibt)[i]。たとえライン河畔の褐炭埋蔵地に位置するこの村の地下からパワーシャベルで石炭が掘り出されることになったとしても、その名前だけは生き続けるだろう。強力なコンツェルンおよび国家権力に立ち向かった人々の、勇気と豊かなアイディアのシンボルとして。リュッツェラートはまた、時代の標識をみとめようとしない政治のシンボルにもなっている。時代の標識、それは石炭を廃止することであり、個別の利害ではなく万人にとっての良い生活を中心的な基準点とした生産様式へと移行することだ。

これが保守政党かリベラル政党かの問題ではないということは、驚くには値しない。既存政党の歴史的な機能というのは、支配者側の利害を念頭に、できるだけ長く社会的変革を先延ばしにしておくことにあるからだ。変革の必然性が否定できなくなるまでのあいだ。政治的な義務不履行への怒りはしたがって、まず第一に緑の党に対して向けられている。そしてそれは正当なことだ。1998年以来二回目で連邦レベルの政権与党になるやいなや、かつてみずからの出身母体であったさまざまな運動に敵対する政治を新たに行いはじめているからだ。一度目の裏切りはなによりも平和運動に対してのものであり、当時の指導者であったヨシュカ・フィッシャーのもとで緑の党はそれを蔑ろにした。[ii] 現在では、気候正義運動の切実な関心事に対して失望を与えている。直近の選挙の成功が気候正義運動の力強さのおかげであるにもかかわらず。

緑の党の政権参与者のなかで、社会-エコロジー革命を待望している者が一人もいないのは確かなことだ。というのも一つには、緑の党は連合政権の一部にすぎず、その連合のなかにFDP[自由民主党]がいることによって反エコロジー勢力はかなりの潜在的な圧力を自由に行使することができるからだ。そしてもう一つの理由に、国の政治と社会運動の行動とは考えてみるまでもなく別のロジックに従っていることがある。国の政治の可能性は、支配的な社会関係によって組織的な制限を受けている。そうした社会関係は、国家の機構のなかに染みこみ、そのなかの官僚たちの思考様式を形作り、そもそもどのような問題がどのような形で議論のテーブルに上るのかを決定する。68年世代が目指した「諸制度を通じた前進」は、運動の参加者たちを通じた諸制度の前進という結果に終わった。それこそが、一度目の緑の党の政権参与における経験だった。考えるより先に、そして大抵の場合気がつくことすらなく、緑の党の幹部たちは制度による制限を内面化し、そのことで現実という確固たる足場を獲得したのだと錯覚した。そこでの現実とは支配者たちの現実であり、かれらはこれまでそれを批判してきたにもかかわらず、いまやその形成に参画することを望んでいるのだ。

こんにち指導的な役割を果たしている緑の党がおかした不履行とは、こうした経験を反省しなかったということである。そのかわりに彼らは闇雲かつ不用意に、ある状況へと入り込んでいったが、そこでかれらは気候政治上の妥協策として、世界的にも最大の環境犯罪のひとつに対して白紙委任状を売り渡すに近い結果となったのである。これほど多大な「緑の現実感覚」を前にしては、RWEはさらにしばらくのあいだ手を叩いて喜ぶことになるだろう。というのも、エスカレートしつつある気候危機の時代にあって、この電力コンツェルンはさらに2億8000万トンの褐炭をパワーシャベルで掘り出し、燃焼することを許されているからだ。脱石炭法(Kohleausstiegsgesetz)よりも8年予定を早めたのだから、2030年に大気が熱され地面が燃やされていてもよいというわけだ——しかもそれで安心していられるのは、実際に予定よりも早く石炭を廃止することになっても、そのころにはヨーロッパの排出量取引での購入証の価格が高騰しているために石炭発電はどのみち採算が取れなくなっているだろうと確信しているからだ。さらなるおまけとして、RWEコンツェルンは、今後何年かのあいださらに幾つもの癪に障ることをしでかしてくる気候正義運動の重要なインフラを破壊することまでできた。というのもリュッツェラートの占拠地区は、人々が集まって気候アクションのトレーニングやワークショップやフェスティバルを行う場所だったからだ。

こういう反論も可能だろう。エネルギー転換のブレーキを組織的に踏み込み、こんにち緑の党とSPD[社会民主党]が現在直面している袋小路状態を最初に作り出したのは、信号連合[緑の党(緑)、SPD(赤)、FPD(黄)]の前任政権ではないか。緑の党が政権に入っていなかったなら、状況は今以上に悪くなっていたはずだ。それに結局のところ、ロシアによるウクライナ攻撃に続いて起こったガス価格の上昇に関して、いまの政権は何の罪もない。こうした主張はすべて正しい。だが決定的な点には触れられていない。その点とはまず何よりも、電力の供給保障と電力網の安定性という観点からはリュッツェラートの地下の石炭の採掘は必要ではないというシンプルな事実だ。いくつもの鑑定がひとしくこの結論に達している。[1] すると、実際の政治的論議では無視されているが、次の疑問が浮かぶ。実際のところ誰のために、そして何のためにその電力は作り出されるのか? そしてほんとうは何に対する供給保障がそこで問題になっているのか?

というのも、もし仮に現行の電力需要をカバーするために石炭が必要なのだとしても、エコロジーの観点から見て自然なのは、まず一度その需要量そのものを問題にすることだろう。それをカバーするためにさらなるCO2を排出してしまうまえに。私たちはほんとうに、ますます巨大化している莫大な量の車体が生産される自動車工場のために、電気を生産するべきなのだろうか? そうした乗り物は一度放出されるや、それ自体で大量の電力を消費し、あるいは化石由来の燃料をたちまち二酸化炭素に変えてしまうというのに? 合成物質でできた山のような包装品を生産する化学産業のためのエネルギーは、必要なのだろうか? そうした商品は一度使われたら焼却されるか外国へ輸出されてしまうというのに? ——つまりそこで何の供給が保障されているのかといえば、すでに現在でも無数の人々を不安定な生存状況へと突き落としている生産様式と生活様式にほかならないのだ。

なぜ社会的な運動が必要不可欠なのか

それに比べてはるかに意義深いのは——そして尖鋭化しつつある危機に直面するなかでますます緊急に必要とされているのは——、立ち止まってこう訊ねてみることだろう。社会にとって本当に欠かすことができないのは、どのようなものなのか? 加えて、地球をこれ以上加熱することなく、この国の、他地域の、そして将来世代の人々の生活基盤を破壊しないような仕方で作り出すことができるのは、どのようなものなのか? それは、持続可能な交通システムであったり、しっかりと整えられ誰でもアクセスすることができる医療保健機関であったり、エネルギー消費が改善された適正な価格の住宅であったりするだろう。

言うまでもなく、そのための資金は十分に存在している。社会はかつてなかったほど豊かになっている。何億ユーロもの金額を国防軍や銀行の救済のために差し出すことができるということは、将来にわたって生存可能な社会を作るための十分な資源を手にしてもいるということだ。いったいどうして私たちの資源や人々の創造力を、新しい金融商品を展開したり、SUV車をデザインしたり、軍需システムを最適化したりするために引き続き浪費する必要があるのだろうか? そうする代わりに、社会全体の努力を、生産部門やケア領域や保健機関で働く人々の実践的で集合的な知性を、そしてエンジニアたちの創造性を、万人にとっての良い生活のために役立てたらどうだろうか?

こうした問いは、議会や省庁のなかではほとんど議論することができない。それも驚くことではない。というのもそうした問いは、資本主義の生産様式の臓腑へと手を突っ込むことと同じだからだ。すなわち、そこから利潤や成長や税収が生まれるかぎり、生産手段の私的所有を最終的には公共の利益を害する目的にも利用して構わない、という[資本主義の]可能力へと。その可能力のうわべを糊塗しているのは、「競争力」といった概念であり、雇用増加の仄めかしであり、あるいは気候変動において問題なのは「中国人たち」なのだといった議論である。だってヨーロッパはもうやるべきことをやっているじゃないか。だが、こうした主張はすべて霧のなかで灯した蠟燭のように視野狭窄なものだ。

まさにそれゆえにこそ、リュッツェラートやその他の場所で気候正義のために闘っているようなラディカルな社会運動が必要なのだ。そうした運動は、おもてむきの確からしさを揺り動かし、国家機関によってはまったくないし十分には代表されていない関心を明確な形で言葉にし、自然に与えられたように見える確固たる現実の本来の姿を明らかにする。つまり、それまでの社会的な討論によって得られた結果——しばしば強力な個別の利害の全般化という形で現れる——としての現実の、本来の姿を。確固たる現実を歴史的に生成したものとして理解し、こうでしかありえないという論理に抵抗することは、生き埋めにされた変革の可能性を救い出し、あらゆることがまったく別のあり方でありうるのだと明らかにすることを意味する。

とは言っても、闘って得たものを確かなものにし、成果が効果を持つようにするためには、どこかしらに杭が打ち込まれなければならない。変革というものは、正しく錨をおろし、後退に対して防衛策を講じ、攻撃に耐えるように形を作りあげなければならない。この点こそが、これまで多くの進歩的な運動が越えられなかった難所にほかならない。それらの運動は何かが始まるという気分を作り出し、可能なオルタナティブを提示し、若い世代を政治化させるという効果を生む。しかしながら、実感しうる社会的な変革を達成する——たとえば化石燃料の燃焼を終わらせたり、食肉工場を禁止したり、自動車システムの野心的に解体したりすることにとよって——ことができないと、運動はフラストレーションによって脅かされる。さらに危険なのは、さまざま運動はたしかに始めのうちとりわけ抑圧や支配的な意見に対抗して闘うけれども、長い目で見たときには[体制への]取り込みによって脅かされるということだ。抑圧は運動を強力なものにすることさえあるし、身体と生命の危険と引き換えにではあれ、争点事項へ関心を高めもする。それに対して、体制に取り込まれるということは、しばしばしのび寄る死を意味する。

変容的な戦略を発展させるという挑戦

その経済的な活動基盤である資本主義と同様、リベラルな民主主義もまた変化を糧として生きながらえている。それらは自らをたえず新たに発明することによって、自らを再生産する。社会運動は行動の必要性を示す地震計だが、そうした必要性は政治によって捕獲され、新たな活動の可能性へと翻訳されることも珍しくない。その結果とは、アントニオ・グラムシが「受動的革命」として言い表したものだ——つまり、変化の途上にある現行の状況が、支配的な利害集団によって導かれながら安定化するのだ。このことは、ラディカルな社会運動についても、また国家機関における進歩的なアクターについても言うことができる。両者に投げかけられている挑戦とは、変容的な戦略を発展させ、そうしながら互いを支えあうということだ。

近代化する積極的な戦略とはことなり、変容的戦略がみずからのうちに改良を含みもつのは、支配者たちのコントロールを逃れ体制への取り込みから最終的に自らを守る力学を、理想的なしかたで作動させるためだ。かれらにとって本当に大事なのは広範囲に及ぶ変容であるにしても、国家内および政党政治内の解放をめざすアクターは、資本主義国家の諸制度の内部でと同時に諸制度に逆らって政治を行わなければならないという事態に含まれる緊張関係について、意識しておく必要がある。この矛盾のなかでこそ、解放をめざす政治は首尾よく作動しうる。もしそこで、社会的な運動の制度上の反響板としても自らを把握することができたなら。根底的な変革をこととする政府および政党は、単に運動を代表=表象するかわりに、運動の力を増すことにも寄与しなければならない。そこから反対に、自分たち自身の力を引き出すために。そうすることによってのみ、運動が勝ち取った収穫物の防衛に最終的につながるような力学を作動させることができる。

緑の党はこのことを怠ってきた。かれらの反応というのは、いわば半分に折った反響板のようなものだ。緑の党は、自ら力を増す気候正義運動から選挙の投票という形で力を引き出している。しかし緑の党は運動にたいして何もお返しをしてしない。そのかわりに、相手をリュッツェラートの泥沼のなかで国家の弾圧の手へと引き渡した。よりにもよって緑の党の警察長官によって指揮されている弾圧へと。

気候運動がこれまでの出来事を経てすくなくとも象徴としての勝者として立ち現れる一方で、緑の党は、モナ・イェーガーが『フランクフルター・アルゲマイネン・ツァイトゥング』紙上で推測しているように[2]、リュッツェラートの撤去によってそのハルツ4(Hartz-IV)の瞬間を経験することになるかもしれない。[iii] SPDが2005年に第二社会法令集(Sozialgesetzbuches II)を可決通過させたことでみずからの社会政策と労働市場政策における信頼性を棒にふったのとまったく同じように、緑の党はいままさに気候正義運動がもしかしたらまだ持っていたかもしれないかれらへの最後の信用を失おうとしているところだ。国家の屋台骨として現実というかたい地面に立っているのだと確信しながら、かれらは実際にはライン地方のすっかり柔らくかくなった耕地に腹から飛び込んでいるのだ。

リュッツェラート以後、どう先に進むのか?

変容的な政治が可能であること、そしてそれがいかに可能であるのかを示す実例は十分に存在している。直近の時期のひとつの例は、ベルリンにおける「ドイツ住宅の公用没収(Deutsche Wohnen enteignen)」というイニシアチブだ。国民表決の実施は多くの人々の生活状況を向上させるだろうし、それと同時に、基盤的なインフラを私的に思いのままにすることができるという資本主義の構成原理をも問いに付すものだ。他のインフラについても、同じような取り組みが可能だろう。エネルギーの領域においても社会化が議論され、水の供給においても民営化[私有化]された経営体の再公営化[再公共化]が行われてきた。そうしたイニシアチブは、上に述べた場合ではすべて議会外のイニシアチブから発しているものであり、そうしたイニシアチブもまた、国家機関内の左派のアクターとの相互作用——対立がないわけでは決してないにせよ——から利益を得てきた。

リュッツェラート以後、そこから何を学べるのだろうか? そして実感できる気候政治上の変革というのは、このうえどのように闘いとることができるのだろうか? 石炭の採掘の計画延期(モラトリアム)は重要な最初の一歩になるだろう。700人以上の科学者たちが住居の撤去に関して要求したのと同じように。[3] 計画延期(モラトリアム)が行われたら確かにそれ自体が変容的な行為であるが、社会的な(エネルギーの)生産について「どれくらい多く」と「何を目的に」ということが議論されたならば、それによって変容の感覚もまた満たされるだろう。というもの、まさしく次のことが問題になっているからだ——私たちは、まさしくエネルギーの領域において、きわめつきに破壊的なものである私たちの生産様式および生活様式を根底から改めなければならない。そこで含意されているのは、自動車に頼る個人的な交通(MIV)を解体することであり、工業的な農業からの離脱であるが、しかし同時にまた、ますます電力を集約的に用いるようになっているデジタル化についても再考する必要がある。こうしたさまざま問いは、リュッツェラートにおいて直接的に、あるいは間接的に立てられていたものだ——そうした問いが求めているのは、継続的な、そしてグローバルな連帯にもとづく返答だ。

出典:Markus Wissen, Ulrich Brand: Lützerath als Fanal. Warum wir transformative Strategien im Kampf gegen die Klimakrise brauchen. In: »Blätter« 2/2023, S. 89-94

©Blätter Verlagsgesellschaft mbH 2023, used by permission of arthors.

URL: https://www.blaetter.de/ausgabe/2023/februar/luetzerath-als-fanal

(翻訳:中村峻太郎)


[1] 例えばFlensburg大学のFossilExitという研究グループによる鑑定「ライン地方の褐炭埋蔵:エネルギー転換にかんする実際の数値・データ・事実」(2022)、ならびにAurora Energy Researchによる「調整された石炭撤廃がドイツの電力部門における排出に与える諸影響」(2022年11月22日)を参照のこと。

[2] Mona Jaeger, Erleben die Grünen ihren Hartz-IV-Moment?, www.faz.net, 15.1.2023.

[3] Offener Brief: Ein Moratorium für die Räumung von Lützerath, www.de.scientists4future.org, 11.1.2023.


[i] [訳注]リュッツェラートの立退き反対運動の代表的なスローガン(リュッツェラートの愛称を用いてLützi bleibtとも)。ハンバッハの森の抵抗運動のさいも同様のスローガン(Hambi bleibt)が用いられた。

[ii] [訳注]ヨシュカ・フィッシャーJoschka Fischer(1948-)は、緑の党と社会民主党の連立政権(「赤緑連合」、1998-2005年)のさいに外務大臣と副首相を兼任した。1999年のコソボ紛争時にはNATOによるコソボ爆撃を支持したほか、2000年にはチェチェン問題に関してロシアを支持する発言をし、2001年のアメリカによるアフガニスタン侵攻に対しても支持を表明した。

[iii] [訳注]「ハルツ4」の通称で知られる「求職者基礎保障制度」は、2000年前半に実施された労働市場改革の結果として2005年から導入された。就労促進を目的とした規制緩和や失業手当の見直し案が行われたが、市民団体や労働組合などか社会的格差を拡大する恐れがあるとして大きな反対があった。参考サイト:https://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2019/08/germany_01.html#link_02


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