テア・リオフランコス「リチウム問題」


アリッサ・バッティストーニ「リチウム問題:テア・リオフランコスへのインタビュー」

『ディセント』誌、2023年春号

長年にわたる公然たる気候変動否認と政治的な硬直状態を経て、とうとう再生可能エネルギーの開発が進行しつつある。アメリカ合衆国における最大の炭素排出源である「運輸」について言えば、大部分の脱炭素戦略は、ガソリン車を充電可能な電気自動車に置き換えることに注力してきた。インフレ削減法はEVの生産者ならびに消費者に対して何億ドルもの補助金を提供しており、そこには国内製造の新車EVの購入に対する7500ドルの税額控除も含まれている。2021年の末に成立したインフラ法案は、各州がEVの充電ステーション網を構築するための援助として5憶ドルの予算を計上した。ニューヨークとカリフォルニアは、内燃エンジンの乗り物の販売を2035年以降に禁止していくと発表した。2030年までに電気自動車はアメリカにおける自動車販売の半数に達するだろうと試算されている。

私たちの個人化/私有化された移動への依存をそのままにしておこうと思うならば、それ以外のあらゆるものがそのままではいられないだろう。蓄電池やその他の再生可能テクノロジーに必要な「戦略的鉱物資源(クリティカル・ミネラルズ)」が不足するのではないかという懸念を、すでに目にするようになっている。例えば、現在の消費パターンに基づいて考えれば、アメリカが蓄電池のために使用するリチウムの需要は、2050年までに、いま世界中に存在している供給量――主要な供給源はオーストラリア、ラテンアメリカ、中国だ――の三倍にも達するだろう。需要の急増が予測されるなか、猛烈な勢いでの新たな鉱山操業が世界中で始まっている――そしてまた、鉱山が生態系システムを撹乱し、水の供給を汚染し、有毒物質を作りだし、ローカルな生業を妨害するのではないかと憂慮する人々による抗議活動も。

「グリーンなエネルギー転換」が現在描いている軌道は、グローバルな環境正義にとって何を意味しているのだろうか? 他の選択肢も存在しているのだろうか? 炭素排出を急激に削減しつつも、採掘を最小化し、人々の自由かつ安全な移動を維持しつづける――もしくはさらに拡大する――ことは、可能なのだろうか?

シンクタンク「気候と共同体プロジェクト(Climate and Community Project)」による新しい報告書は、グリーンな未来についてのさまざまなビジョンの背後に隠されたデータを明らかにしている。公共交通のオプションや人口密度、そして街の歩きやすさを向上させることによって、アメリカが自動車へ依存度を低下させることができれば、いままで通り(ビジネス・アズ・ユージュアル)のシナリオと比べて、リチウムの需要を66%も減少させることでできると予測される。たとえアメリカの乗り物と蓄電池のサイズを縮小するだけであっても、2050年までにリチウムの使用を最大で42%も減らす潜在的な可能性がある。言い換えれば、アメリカ人が国内の運輸・住宅・開発について下す決断が、世界全体にとっても大きな意味を持っているのだ。このインタビューでは、報告書の主要な執筆者である政治学者テア・リオフランコスが、アメリカ合衆国ならびに地球全体における気候・環境をめぐる政治にとって研究成果がどのような意味を持つのか解説する。

アリッサ・バッティストーニ:あなたが2020年に刊行した『資源ラディカルズ』は、エクアドルの採掘産業をめぐって生じてきたジレンマを描いています――それはとりわけ、石油やその他の天然資源を国家の富の源泉とみなす左派の運動[資源ナショナリズム]と、それらの資源と結びついた環境面および社会面での弊害を批判する反-採取主義の運動とのあいだの対立でした。たいていの人はおそらく、石油の採取にともなう環境上の諸問題について理解しているでしょう。しかし再生可能テクノロジーの成長によって、私たちは「緑の採取主義(グリーン・エクストラクティヴィズム)」への批判が増大する様子もまた目にしてきました。こうした種類の採取とは、どのようなものなのでしょうか? そしてその政治的な力学は、あなたが研究してきた石油をめぐる政治的力学とどのように比較できるのでしょうか? 資本主義がグリーンになることなどできるのでしょうか?

テア・リオフランコス:徐々に明らかになってきたのは、気候変動との闘いという言葉で意味されている内容が、化石燃料の採掘を捨て去ることであると同時に、「グリーンテクノロジー」への貢献者として採掘セクターを拡大することでもあるのだということです。 こうした移行をめぐっては、数多くのジレンマや社会的な対立が存在しています。気候左派(クライメート・レフト)の人々に課せられている義務は、気候変動と闘うという目標と、その闘いで用いられるテクノロジーのサプライチェーンのあらゆる結び目において公正さを保障するという目標とを連携させることです。

大規模な採掘は、世界的にみても重要な経済部門です。非常に多くのテクノロジーや日用品やインフラに必要な原材料を提供していますから。例えば銅は、すでに数多くの異なる使用目的を有する巨大な産業となっています。その産業はさらに拡大するでしょう。なぜなら銅は導線を作るために不可欠であり、その導線は電化――とりわけEVやその充電ステーション、ステーションをグリッドへと繋ぐ伝送線路――のために不可欠だからです。銅の採取・抽出のために必要な水の量もまた、増加するでしょう。世界がますます乾燥しつつあるなかで。鉱山労働はまた、人権という点でも、さまざまな経済部門のなかで最悪の記録を保持しています。ラテンアメリカでは鉱山の操業に抗議する活動家たちが頻繁に殺害されています。民間警備会社と国家権力の双方によって。今年の初めにも、何人かのメキシコの活動家たちが行方不明になりましたが、鉱山採掘に反対する活動に関わっていたためである可能性が高いと考えられています。

最も重要な工業用金属に関して言えば、最終的な完成品を利用するのは世界人口のうちきわめて小さな割合の人々です。鉱物の使用目的である製品が環境的・社会的・経済的な便益をもたらすかどうかということは、ほとんどの場合、採掘の直接の影響を受けるコミュニティの人々には関係がありません。たしかに鉱山はいくらかの雇用を提供しますし、それはとりわけ、経済的に抑圧された田舎のコミュニティにとっては重要なものです。しかしながらそうした雇用は季節的でその場限りのものであり、払いも悪く、商品市場の不安定さ(ボラティリティ)によって影響されます。パンデミックのさなかにガス・石油・石炭の市場が暴落した際には、大量の一時解雇(レイオフ)が行われました。

掘り出される金属が、再生可能エネルギーのシステムを支える技術やインフラに使われるようになったからといって、採掘部門の体質が変化するものでしょうか? 深いレベルでの変化が起こることは期待できません。 採掘と気候変動対策のテクノロジーとの重なり合いは、鉱山産業に対して新たなプレッシャーを与えています。多国籍鉱山企業は気候の救世主ではないということに、人々が気づきつつあるからです。例えば、そうした企業の多くは今なお自社の石炭資産を所有しつづけています。

鉱山企業は草の根の反採掘活動家による監視には慣れていますが、サプライチェーンの反対側からの圧力にはそれほど慣れていません。それがESG[環境・社会・ガバナンス]原則への参加を表明した投資家たちであれ、環境に配慮した消費者たちであれ。結局のところ鉱山企業は、そしてある程度は自動車企業も、批判によって包囲されていると感じているのです。

バッティストーニ: あなたと他の「気候と共同体プロジェクト」の研究者たちが発表した報告書では、運輸を脱炭素化しながらも、リチウム消費を減らし、モビリティ(可動性)を増加させることが可能であると主張されています。これらはしばしばトリレンマとして問題設定されてしまいます。三つの目標――脱炭素、運輸とモビリティの拡大、そして採掘の縮小――のうちの二つは満たすことができても、三つともすべては無理だというわけです。私たちがしばしば耳にするのは、気候変動がこれほど緊急の問題なのだから、可能なかぎり急速な脱炭素を最優先事項にする必要があり、もしその対価としてより多くの採掘が必要となるならそうすればいい、という意見です。あなた方の主張はそれとは対照的に、実際的かつ公正な方法で、現在のアメリカで最大の炭素排出源である運輸部門を脱炭素化することが可能だというものです。その方法とは、どのようなものなのでしょうか?

リオフランコス: 報告書はトリレンマが存在しないと述べているわけではありません。むしろ、 三つの目標を互いに協力関係にあるものとして考えることによって、それらのあいだにあるトレードオフ関係を減少させることができるようになるのです。

採掘部門を改善するために提案される解決策はしばしば、採掘の直接の現場に焦点を当てたものです。しかし見方を変えれば、採掘は鉱山で始まるわけではありません。採掘を推し進めている判断は、サプライチェーンのもっと下流で行われているのです。私の考えでは、採掘の問題や弊害とは、ウォール街や北京、ワシントンD.C.、そしてブリュッセルで下された判断の産物であり、そこでは政府や公共政策部門、そして(理論的には)民主的な多数派が、エネルギー転換の未来を決定するうえでの役割をひとしく果たしています。そして、資源採掘を減少させうる政策介入と、あなたがバスに乗るか自動車に乗るかという選択とは、互いに関係しているのです。そうした選択は一見、世界のリチウムの四分の一を産出しているチリのアタカマ砂漠で起こっていることとは直接関係しないように見えるでしょう。しかし、実際には関係しているのです。[i]

進歩的な、そしてラディカルな気候活動家たちでさえ、これまで長いこと未来を二極的な選択肢として提示してきました。現状通り(ステイタス・クオ)にとどまるか、 完全に電化し再生可能エネルギーへと移行するか。こうした語り方をするべき理由は十分にあります。というのも、こうした基本的な選択に懸かっているものが、これ以上ないほど大きくなっているからです。とはいえ、少しずつの歩みではあれ、メジャーな経済潮流は主要なエネルギー源としての化石燃料から身を離しつつあります。化石燃料産業と政治的にも経済的にも対決する必要があることを軽く考えるべきではありませんが、いまやエネルギー転換は始まっており、そこにはいくつもの経路がありうることは明らかです。化石燃料資本主義かグリーン資本主義かという選択が重要であるのと同様に、規制のないグリーン資本主義か、社会的にみてより進歩的なグリーン資本主義か、それともグリーンな社会民主主義か、エコ社会主義か、という選択もまた重要なのです。さまざまな闘争があれば、さまざまな対立があり、さまざまな暫定的な解決策が存在していて、それらによって社会はエネルギー転換のさまざまな経路に乗せられるわけです。

私たちの報告書が取り組んでいるのは一つの部門――運輸――だけですが、それが電化されない可能性は、考慮すらしていません。(どのようなペースで完全な脱炭素化が行われるかを予測する報告書と並んで、脱炭素化が必要な別の経済部門や、他の一連のサプライチェーンおよび資源投入について、私たちのものと同じような報告書をぜひ読みたいと思っています。) 私たちは、電化されゼロ排出を100%達成した2050年の未来を想定し、四つの異なるシナリオの概要を描いています。そのうちの一つは、基本的に現状通り(ステイタス・クオ)だけれども電化はされている、というものです。他の三つのシナリオは、運輸部門に取り組む度合い、すなわち自動車への依存に直接的に立ち向かう度合いを増していったものです。もっとも野心的なシナリオにおいて私たちが到達地点とした社会は、自動車の使用と所有がはるかに少なく、より集住し、よりスプロール化していない社会です。

一つ目のシナリオでは、私たちはあらゆる内燃エンジンの自動車をEVに置き換え、経済成長と人口増に応じて乗り物の数をさらに加算しています。高速道路や、郊外のスプロール化や、アメリカ人が社会へ十全に参加するためには自動車の所有が必要があるという事実には、変更を加えませんでした。そこから、少しずつ変化を加えていきました。自動車に乗る代わりに、バスに乗ったり、歩いたり、自転車に乗る人の割合が増えたらどうだろう? 自動車を所有する人が減っていったらどうだろう? 私たちの住む大都市の人口密度がもう少しだけ増えたらどうだろう? こうした様々な世界像を作りはじめると、こうした未来を実現するうえで必要となる原材料――この報告書の場合はリチウム――の総量に関して、いかに重大な違いが存在するのかが理解できます。分岐点も数多く存在しています。例えば、依然として自動車依存でありながらも、巨大な自動車を持たないようにすることは可能でしょうし、そのことはバッテリーのサイズとリチウム需要という点で、大きな差異を生み出します。炭素排出ゼロのためにどれほどの資源が必要かということに関して、こうした政策や投資による介入のすべてが本当に重要なのです。

バッティストーニ: それほど多くの採掘を必要としない、より非-資源集約的な転換モデルへとシフトすることは可能であり、「採掘の総量は決定済みではない」と報告書は言明しています。しかし同時にその主張によれば、希少な「戦略的鉱物資源(クリティカル・ミネラルズ)」という言い方それ自体が、鉱山開発やその他の採掘の競争に燃料を注ぐものでもあります。 モデル化の試みはまったくもってテクニカルで退屈に思えるかもしれませんが、あなた方の主張によれば、それは現在の人々の行動に影響を与え、したがってまた未来を形作るものでもあります。

リオフランコス: 私がつねに抱えている関心は、モデルや予測といったものがどのような政治的な帰結を持つかということです。左派が自分たち自身のモデルを作りだすことは非常にまれです。私たちは今とは別の現実を生きる必要があり、さまざまな数値に基づいたモデルを持つ必要があることは言うまでもありませんが、同時にそうした数値がいかに構築されているのかも知らなければなりません。変数をどのように定義しているのか? データの典拠はなんなのか? そうした前提は、機関の立ち位置によって左右されており、さらにいくつかの場合においては、モデル化を行う政治機関や組織の財政的ないし政治的な特権によって左右されています――それが国連であれ、世界銀行であれ、民間部門の製造企業やコンサル企業であれ、国際エネルギー機関(IEA)であれ。彼らがつねに問うているのは「どうすれば自分たちは最も変わらずに済むか」ということです。 それはもしかしたら、自動車文化がいかに支配的であるのか、エリート機関における政策決定者や役人や官僚がいかに抑制的かということの証なのかもしれません。特定の問いを発することを不可能にしているのが、何らかの目隠しなのであれ、現状(ステイタス・クオ)のなるべく多くの部分をそのままにしたいという欲望なのであれ、最終的な結果からいえば、いま存在している原材料の需要モデルは、採掘の弊害を削減するという目標にとってはそれほど役に立ちません。彼らが言っているのは基本的にみな同じことです。たくさんの鉱物が必要だ。急いで手に入れなければいけない。そして、それが手に入るなら、どこからでも手に入れなければいけない。包括的な計画や、実際に必要とされていることや、さまざまな土地のもっとも良い使い方と言ったことに関しては、まったく考慮していません。

左派には自分たち自身のモデルが必要だと私が述べるのは、それが一つの政治的なツールだからです。それはイデオロギーによって屈折し、その成果が提供する経済的利害によって形作られ、資金を得ています。本に書いてあることを調理して出すのではなく、私たちはさまざまな質問を発し、さまざまな想定を行い、明瞭な変数(パラメータ)を特定しなければなりません。そうすることで、さまざまな未来が可能であり、その背後には数量的な裏付けがあるのだということを、実証的に示すことができるからです。

バッティストーニ: アメリカ合衆国は非常にスプロール化が進んでいるので、公共交通を改善し建造環境を集密化することは低く生る果実[達成が容易な目標]に見えるかも知れませんが、 気をくじかれるほど、変化を起こすことが難しく感じられてもいます。私たちが持つインフラのうち非常に多くのものは自動車中心で作られており、そのことが経路依存の感覚を生み出します。パンデミックも状況を悪化させただけです。公共交通の利用は減少し、自動車の所有が増加しました。しかし報告書が主張しているのは、輸送と交通は公共政策や政治を通して構築されているのであり、いくらかの介入を行うことは実際に可能だということです。どのような成功譚が期待できるのでしょうか? どこから始められばよいのでしょう?

リオフランコス: アメリカ合衆国においてこの問題は単に政治的ないし経済的な問題であるにとどまらず、社会的な問題であり、文化的な問題であり、ジェンダー化された問題でもあります。問題が非常に重層的に決定され、多面的なものであるということは、裏を返せば、その問題を収縮させ、掘り崩し、解体するための杭を打ち込める場所もそれだけ多くなるということです。自動車依存は、単一の独立した事象ではありません。それは投資家、政策決定者、消費者、さらには近隣住民らによる、さまざまなスケールでなされる決断がすべて合わさったものなのです。そうした決定がなされる場所のなかには、民主的な申し立てや進歩的な要求事項が、他の場所よりも受け入れられやすい場所もあります。ですから、私たちは戦略的に考えなくてはいけません。

希望のための論拠はいくつか存在しています。一つには、さしあたり現在はということですが、私たちが手にしているのは民主党の指導部です。私の手はバイデンに対する批判が山ほどありますが、しかしさまざまな機関のなかには善良な人々もおり、そのことには意味があるかもしれません。さまざまな基準を利用しながら、より効率的かつより資源集約的でない蓄電池を製作するための、創造的で技術専門性に立脚した思考が存在するのかもしれません。

そのことに関する別の側面では、地域レベルと国レベルの双方で、公共交通機関を奨励し自動車の利用を抑制するための興味深い実験が行われています。デンバーでは、電動自転車に補助金を出すことにし、その実験はうまく行きました。人々はそれを購入し、日用品の買出しやその他の市域内移動のための自動車利用は減少しました。自転車があることで、一台の車とその分の駐車場が不要になるのです。私はプロヴィデンスに住んでいますが、そこでは国じゅうの他都市と同様に、州政府が公共交通機関の料金無料化を進めています。さらには住宅危機が、住宅価格や人口密度や長距離通勤の問題について考える圧力を生じさせています。とりわけ労働者階級の人々に関して。都市計画におけるゾーニングの規制をゆるめ、手ごろな集住を容易にし、住宅をよりグリーンにすることは、どれもみなポジティブな効果を生むでしょう。人々が移動しなければならない距離が短くなるほど、輸送・交通システムで必要となるリチウムの量は少なくなります。

私が目にしてきた他の興味深い記事によれば、多くの都市が、道路沿いの風景を圧倒的に占めている駐車場の量を削減したがっています。こうした考えは住宅や公共交通へのアクセスについての関心から来るもので、原材料や採掘の害悪についての関心からではありません。しかし動機が何かということは重要ではありません。廉価な住宅、集住、交通へのアクセス、そして移動の平等へと私たちを導いてくれるものは何であれ、他のさまざまな理由――大気汚染の削減、平等の拡大、社会的隔離の是正――にとっても良いものなのです。さらに、サプライチェーンに関する社会正義や環境正義といった点からみれば、その価値はグローバルな意味をも持っています。

バッティストーニ: 供給側の話に戻りましょう。報告書は他に域内移転(オンショアリング)[国内移転]についても話題にしています。つまり、新たなリチウム鉱山をグローバル・ノース――特にネヴァダ州や、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国――で開発しようという圧力について。採取主義(Extractivism)への取り組みはしばしば、グローバル・サウスが低価値の天然資源の供給源として扱われ、グローバル・ノースがその資源を付加価値のある加工製品の生産に利用するという様態に焦点を当ててきました。域内移転はそうした力学にわずかな変更を加えていますが、採取された資源から得られる利益の不均衡な分配自体は、製品が生産される国で資源が採掘されるようになったとしても存続するでしょう。域内移転は、採掘主義やサプライチェーンや気候の地政学にとって、何を意味しているのでしょうか?

リオフランコス:私の見るところ二つの変化が起こっていると思います。一つ目は、富裕な国々の政府が持つ欲望です。彼らはグリーン技術の覇権やサプライチェーンの安全保障をめぐる競争のなかで、戦略的鉱物資源の採掘を域内移転することを望んでいます。ヨーロッパ、カナダ、アメリカ、そしてその他、最終的な製品の消費が行われる場所の近くで、今後ますます多くの採掘プロジェクトが持ち上がるでしょう。二つ目の変化として、私たちは現在、サプライチェーンの再統合を目にしています。つまりそれはフォード式モデルへの回帰であり、そのモデルにおいて、自動車会社は原材料の採掘を会社の内部に併合することで、より領土的に安全なアクセスを確保しようとしてきました。こうした動きは採掘と生産の地勢図を新たに描き直すものであり、サプライチェーンをめぐる政治運動(アクティヴィズム)にとってもいくらかの重要性を持っています。

域内移転はこの10年以上のあいだ、政策サークル――安全保障タカ派や、異端派経済学の学者たちのような――の内部だけでのアイディアでした。そのアイディアが起こったのは、2000年前後から2014年まで続いたコモディティ・ブーム[原材料価格の高騰]の最中であり、それと同時に、新しい産業用発電所の増加や、原材料のサプライチェーン全体を保障する中国の産業政策も生じていました。こうしたことは、私たちが新自由主義による覇権(ヘゲモニー)の時期に目にしたサプライチェーンの組織化からは、考え方が転換しています。アメリカ合衆国やヨーロッパ連合の政策エリートたちは、原材料へのアクセスを保障するであろう産業政策について顧慮しはじめ、グローバルに分散したサプライチェーンについて再考を図りました。しかしこうしたアイディアは、たいていの場合シンクタンクや、飛び地のように存在する規制国家のなかだけにとどまっていました。それほど政治的なアピールを持っていなかったのです。

そうしているあいだにパンデミックが起こり、エネルギーの転換が始まります。そこではじめて、サプライチェーンが公共的な注目を集めるようになったのです。域内移転や産業政策は製造業をふたたび活性化し、脱工業化によって引き起こされる政治的な問題に解決策を提供し、より安定的な経済を創り出すための手段であるという考え方が、突如として大流行しました。域内移転と産業政策は、西側で人気を得たのです。 さまざまな政治的スペクトラムに位置するエリートたちが域内移転という点で連携しました。採掘に関してであれ、製造業に関してであれ、あるいはその両方であれ。それは、多くの政治的、地政学的、経済的、そして社会的な問題を解決してくれるように映りました。現在では、グローバル・ノース諸政府の管轄下における戦略的鉱物の採掘を直接的に奨励するような規制が、アメリカ合衆国にいくつも存在しています。

バッティストーニ: このことは、気候変動との闘いにとって、グリーンなテクノロジーを生み出すことにとって、そして社会正義および環境正義にとって、何を意味しているのでしょうか?

リオフランコス: アメリカの気候活動家たちのなかには域内移転が良いことだと考える流れがありますし、そこにはいくつかの十分な理由があります。その理由の一つは、再生可能エネルギーへの転換に必要なグリーンテクノロジーの製造を奨励したいというものです。そしてまた、採掘をグローバル・ノースへと移転させることは採掘をめぐる不平等に取り組む一つの方法であるという考えもあります。はるか彼方の紛争地帯から鉱物を輸入する代わりに私たち自身の裏庭でそれを掘り出せば、私たちが自分で環境上のコストを支払うことになるわけです。

私たちが気候変動との闘いに必要なテクノロジーを確実に生み出すためには、公共政策と公共投資が途方もなく重要です。採掘の地勢図が極端に不平等なものであることは非常によく理解していますが、だからこそ採掘による害悪と利益をいかに再分配するかについて考えることに価値があるのです。とは言え、ネヴァダに鉱山を開くことがグローバルな公正を推し進めるという考え方は正しくないと思います。[ii]

重要なのは、鉱山が開かれる場所、その環境負荷、そして影響を受ける「私たち」に着目することです。シリコンバレーにいるテスラのオーナーは、ネヴァダでの採掘によって影響を受けることはありません。私たちが話題にしている田舎の辺境地や後背地は、長いこと採掘の現場となり、極端なかたちの公害の現場となってきました。ネヴァダで起こってきた核兵器試験とウラン採掘のことを考えてみてください。私たちが報告書のなかで着目した鉱山の立地のひとつは、アメリカ軍による先住民の虐殺が行われた場所でした。そこに存在している歴史の層や加害や犠牲は、グローバル・サウスに対して行われているさまざまな形態の暴力とそれほど異なっているわけではありません。ポルトガルやスペイン、ネヴァダ、アルゼンチン、そしてチリの活動家たちはみな、 採掘の弊害という点のみならず、誰が環境的・社会的な対価を払っているのか――それは周縁化された人々であり、(つねにではないものの)しばしば先住民の人々です――という点においても、お互いの共通性を理解しています。両アメリカ大陸にひろがる先住民のグループについて話しはじめた途端に、グローバル・サウスとグローバル・ノースの境界線を維持することは少し難しくなります。彼らは何世紀にもわたって、採掘の弊害によって苦しめられてきたからです。

最低でも、次のことはごまかしてはいけません。こうした新しい形態の官民連携(PPP)によってどんな企業が利潤を増やし、助成金を受けているのか。対価を支払っているのはどのコミュニティなのか。そして、それぞれのアクターの力関係はどのようなものなのか。

バッティストーニ:『資源ラディカルズ』であなたは、土地からの立退きや社会的・環境的な弊害をめぐって人々がどのように組織化することができるのか、そして同時に、資源に基づく公共プログラムから利益を受け取ることができる大衆の連合体をいかに形成することができるのか、ということを問うています。この報告書では、エネルギー利用の生産面と消費面を別々にではなく一緒に考えることによって、似たような問題に取り組む結果になっています。こうしたさまざまなアクター――採掘の負担を担う人々、モビリティの拡大を必要とする人々、そして雇用であれ歳入であれ緑の移行(グリーン・トランジション)から利益を受けうる人々――の連合体についてあなたが持っている夢のビジョンは、どのようなものなのでしょうか?

リオフランコス: 環境上・社会上の弊害に対抗して運動を組織することの負担は、不均衡なまでに直接の影響をうける人々の肩にのしかかっています。しかしそうした材料はグローバル経済の筋組織へと組み込まれることになりますし、直接には関係していない人たちもそこから影響を受け、あるいはそこに巻き込まれています。私たちは闘争や異議申し立ての現場について、より広い見方をしなければなりません。そして、採掘の構成要素を削り取っていくために利用可能な戦術や道具、政策介入についても。

私はかつて、どのような条件下であれば土地に根差した田舎の人々が都会の貧しい労働階級の人々と協力し合って採掘と闘うことができるのか、調査したことがあります。今、私が知ろうとしているのは、輸送機関の利用者、多人種からなるアメリカの労働者階級のコミュニティ、そして採掘の弊害によって苦しんでいる人々――住んでいるのがネヴァダであれ、ポルトガルであれ、チリであれ、アルゼンチンであれ――のあいだで、どのような条件下であれば政治的な連携がありえるのかということです。こうした諸団体が互いに文字通りの明確な連合へと至るかどうかはともかく、それぞれの活動が連携して行われることはありうると思います。適正な価格の住宅やグリーンな集住やよりよい交通機関へのアクセスのために闘うアメリカ合衆国内の社会運動が、採掘企業の仕事を困難にする前線での運動と同時に開花したならば、それはサプライチェーンをなす連携なのだと考えていいでしょう。それらが明確な提携関係にあるかどうかはともかく。こうした行動はすべて、より資源集約的でなく、はるかに平等かつ民主的なかたちでのエネルギー転換への後押しとなるのです。関与している運動やアクターが直接に提携しているかどうかということは、私にとってそれほど重要なことではありません。より重要なのは、私たちが自分たちの視線や戦術をサプライチェーンへと、資本主義経済の物質的な基層へと、そして再生可能なエネルギーシステムへと移行するために構築されつつあるインフラへと向ける訓練をしている途中だということです。


アリッサ・バッティストーニ(Alyssa Battistoniは、バーナード・カレッジで政治理論を教えている。『惑星を勝ち取る:なぜ私たちにはグリーン・ニューディールが必要なのか』の共著者であり、『ディセント』誌の編集部員を務めている。

テア・リオフランコス(Thea Riofrancos は、プロヴィデンス・カレッジの政治学の客員教授でアンドリュー・カーネギー・フェロー。『資源ラディカルズ:エクアドルにおける石油ナショナリズムからポスト採掘主義まで』の著者であり、『惑星を勝ち取る:なぜ私たちにはグリーン・ニューディールが必要なのか』の共著者。彼女は現在『採掘:緑の資本主義のフロンティア』を執筆している。

(翻訳:中村峻太郎)

出典:Alyssa Battistoni, The Lithium Problem: An Interview with Thea Riofrancos, Dissent, Spring 2023. https://www.dissentmagazine.org/article/the-lithium-problem

© Dissent Magazine 2023, used by permission of the Author and Dissent Magazine

使用画像:Oton Barros (DSR/OBT/INPE), Coordenação-Geral de Observação da Terra/INPE, http://www.dsr.inpe.br, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commons


[i] [訳注]チリのアタカマ砂漠で起こっていることについて、リオフランコスはガーディアン記事「〈電化〉ラッシュの隠されたコスト:破壊的なリチウム採掘」(2021年6月14日、動画付き)のなかでも触れている。その記述によると、アタカメーニョの18の先住民コミュニティがリチウム採掘のために新鮮な水をほとんど得られなくなったほか、アンデス・フラミンゴをはじめとする生物種の生息域も脅かされている。

[ii] 域内(国内)移転が必ずしも気候正義の実現に結びつかない理由については、「採掘をグローバル・サウスから移転することは気候正義の本質を捉えていない」(Foreign Policy、2022年2月7日)という記事に詳しい。そこでリオフランコスは、理由として以下の4つを挙げている。①国際的な協調が必要な時期に国家間の猜疑心や地政学的な対立を深める可能性があること。②経済的ナショナリズムが階級間の闘争から目を背ける働きをし、域内移転が実際に労働者の利益になるかどうかが不明瞭であること。③グローバル・ノースのほうが環境規制が充実しており責任ある採掘がなされるとは想定できないこと。例えばアメリカでは公共の土地での採掘に関する法は1872年から変わっておらず、移転が進みつつあるスペインやポルトガルにおいても規制は非常に脆弱である。④EUやアメリカも一枚岩ではなく、これまでも周縁的な地域やコミュニティに汚染が押しつけられてきたこと。例えばアメリカでは、リチウム埋蔵量の79%が先住民保留地から35マイル以内の場所に集中している。以上の4つの理由に加えて、反採掘主義の運動の連携がグローバルに形作られつつあることも、グローバル・ノースへの採掘の移転の正当化を難しくしている。


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