破壊されたガザ最古のモスクが語る征服と共生、そして復元


破壊されたガザ最古のモスクが語る征服と共生、そして復元

ステファニー・ムルダー
テキサス大学オースティン校 美術史准教授

2024年1月17日


ガザのオマリ・モスク〔マスジド・ウマリー・カビール〕は2023年12月8日、イスラエルの爆撃によって大部分が破壊された。オマリ・モスクはこの地域で最も古いモスクの一つであり、ガザのランドマークとして愛されていた。

モスクは7世紀初頭に建設され、預言者ムハンマドの後継者、初期イスラーム共同体の指導者であるイスラーム第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブにちなんで名付けられた。白い石造りの優美な建物には幾つもの尖ったアーチが並び、背の高い八角形のミナレットが木彫りのバルコニーに囲まれ、三日月の冠を戴いていた。

ミナレットの下半分と外壁の一部のみが、モスクで唯一現存する箇所であると報じられている。

ガザは文化遺産の宝庫である。わずか141平方マイル内に325もの遺産が正式に登録されており、そのうちの3つはユネスコの世界遺産暫定リストに指定されている。オマリ・モスクは、2023年10月7日のハマースの攻撃以来、イスラエルの空爆で損傷、または破壊された200以上の古代遺跡の一つである。

イスラーム建築と考古学の研究者として、私はオマリ・モスクがガザの歴史そのものを体現する建物であることを知っている。頻繁に破壊されるが、復元と再開を繰り返す場所としての歴史である。ガザが語られるとき、戦争や紛争が中心になることが多いが、一方で文化遺産を通じて表現されるガザの豊かな歴史や多元的なアイデンティティも同じ様に知られて然るべきだ。

重層的な歴史

太陽が降り注ぐ、海岸沿いの飛び地であるガザは、旧市街の整然とした石造りの建物と若草色のオリーブとオレンジの木立に囲まれ、何千年ものあいだ地中海とアフリカ、アジア、ヨーロッパとを結ぶ貿易の中心地だった。特に、古代世界で最も貴重な商品の一つ、香の中継地として有名であった。農業資源と海洋資源に恵まれたガザは、古代エジプト人、ローマ人、初期イスラームのカリフ、十字軍、モンゴル人など、ほとんど全ての強大な帝国よる征服を経験してきた。

征服が繰り返されたガザの歴史、それは政治的・宗教的慣習の変化に対応するためにしばしば建物が破壊され、再構築され、再び献呈されてきたことを意味する。新たな聖なる建造物は古い建造物の上に建てられ、それが繰り返された。そこでは「スポリア」〔spolia: 以前の建物から再利用される石材〕を取り込むということが頻繁に起こった。オマリ・モスクもまた、建築のパランプセストだった〔以前書かれた文字を消し、その上に別の文字を上書きした、羊皮紙やパピルスの写本のこと。そこから、再利用されているが以前のものの痕跡が残るものを指す〕——都市における重層的で生きた物質の歴史を体現する建物であったのだ。

紀元前二千年頃、モスクのある場所はダゴンというペリシテ人にとっての土地と幸運の神の神殿であったと考えられている。この神殿は、ヘブライ語聖書の中で、戦士サムソンによって破壊された神殿として言及されており、地元ではサムソンはこの神殿の基礎に埋まっていると信じられている。

紀元前323年、ガザはアレクサンダー大王の征服に激しく抵抗した。最終的に制圧されたときも、ガザの街は壊滅的な破壊に耐え忍んだ。だが、紀元前50年、ガザはローマに征服されたのち、富と繁栄の時代を再び迎えた。嵐の神であり街の守護者であるマルナスのために、円形のドーム型神殿templeが建てられた。のちにモスクが建つ場所である。紀元400年直前までマルナスはそこで崇拝されていたが、ビザンツ帝国のエウドクシア皇妃はキリスト教の新たな信仰を強制し、神殿の破壊を命じた。

神殿の司祭たちは内部にバリケードを張り、彫像や祭具を地下の部屋に隠した。しかし、神殿は破壊され、代わりにギリシャ正教の教会が建てられた。しかし、そこの石は物語を残した——1879年、10フィートの高さのマルナス像が、ゼウスに扮した外見で、発掘されたのである。その発見は世界各地の新聞の大見出しを飾った。その石像は現在イスタンブルの考古学博物館に所蔵されている。

ビザンツ帝国もまた、変貌を遂げる運命にあった。7世紀初頭、イスラーム帝国〔ウマイヤ朝〕のアムル・イブン・アース将軍がガザを征服し、教会はオマリ・モスクに改修された。しかし、ガザのキリスト教会シナゴーグが存在し続けたことは、近代に至るまでのイスラーム諸王朝を特徴づけていた多元的な規範が、ガザにもあったことを証明している。

イスラーム帝国治世下のガザ

ガザはイスラームの支配下で繁栄した。中世の旅行者たちは、ガザが非常に肥沃で、創造的で、美しい街であり、イスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のコミュニティが目を引くと書き記している。ヨーロッパの十字軍がやってきたときも、そこは依然として華やかな中心的市街地であった。1100年、ガザが十字軍国家・エルサレム王国の国王ボードゥアン三世により陥落すると、オマリ・モスクは再び改修され、今度は洗礼者ヨハネに捧げられたカトリック大聖堂になった。

1187年、イスラーム帝国〔アイユーブ朝〕のサラディン(サラーフ・アッディーン)が十字軍を破り、ガザは再びイスラーム王朝の治世下に戻った。教会は再びモスクに改修され、13世紀にはその優雅な八角形のミナレットが建てられた。ただ、モスクの改修の際には十字軍時代の教会の多くが保存されており、身廊の大部分西側の扉口は現代でも見ることができる。

この時期から、モスクは数千冊もの並外れた蔵書数によって名を馳せた。最も古い蔵書は13世紀のものである。エルサレムのアクサー・モスクの図書館に次いで、オマリ・モスクの蔵書はパレスチナで最も豊富なものの一つであった。

13世紀には、モンゴル軍による破壊や大地震に見舞われ、ミナレットは何度も倒れた。災害のたびに建て直されてきたことは、モスクがガザの人々の共同生活において中心的存在であり続けていることを、示している。

石は物語る

その後、ガザは沿岸部の港湾として繁栄を続けた。イスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、そのほかの信徒が、広大でコスモポリタンなオスマン帝国のなかで暮らしていた。

19世紀後半、学者たちがガザの遺跡を調査するうちに、この建物の重層的な歴史を雄弁に物語るものが現れた——それはモスクの柱にあるレリーフであり、そこには花輪に囲まれた7本枝のメノラ(燭台)とユダヤ教の宗教行事で用いられるショファル(角笛)が描かれていた。そこには、ヤコブの子、ハナニアの名が、ヘブライ語とギリシャ語で刻まれている。

年代は定かではないが、シナゴーグの柱がビザンツ帝国の教会建築に再利用され、それがモスク建築にも再度使われた可能性が高い——オマリ・モスクという建築的パリンプセストのなかに、またも新しい層が。

数十年後、第一次世界大戦中、オスマン帝国の武器庫付近がイギリス軍の砲撃の標的となり、モスクは甚大な被害を受けた。1920年代、その石はまたも集められ、モスクは再建された。

ガザのオマリ・モスク内の再利用された柱にはユダヤ教の宗教行事で用いる道具が刻まれており、そのレリーフが消されたのは1967年以降のことである。 Archaeological researches in Palestine during the years 1873-1874 via Wikimedia Commons
イギリスによる空爆後、ガザのオマリ・モスク。この20世紀初頭の写真には、モスクの中に保存されている十字軍の教会の中央部分が映し出されている。 Archnet, CC BY-NC

1948年のイスラエル建国後、ガザは何万人ものパレスチナ難民の避難先サンクチュアリとなった。1967年にイスラエルに占領されるまで、そこは主にエジプトによって管理されていた。

1967年の戦争後〔第3次中東戦争〕、ユダヤ教のシンボルがイスラエル国家及びそのガザ占領と結びつくようになったある時点で、モスクの柱からメノラのレリーフが消された

オマリ・モスクの未来

2023年12月8日、イスラエルはモスクを標的とした最も新しい軍事力となった。図書館もまた、廃墟になったかもしれない。簡単には再建できない知識の宝庫として。2022年に完了したデジタル化計画は、図書館の豊さの痕跡を保存している。それでも、デジタルファイルは、オリジナルの書物の物質的な意義に取って代わることはできない。

他にも、ガザの古代の港や世界最古の教会の一つであるギリシャ正教の聖ポルフィリウス〔ブルフィールユース〕教会など、何百もの遺産が損傷を受け、破壊されている。

今日から振り返ると、メノラのレリーフが千年以上も耐えてきたことは驚異的に思える——ユダヤ教のシンボルが、ムスリムの礼拝堂の中に何の変哲もなく同居していたのだ。このレリーフの存在と撤去はどちらも、まさにガザの物語を体現している。モスクの石に込められた何世紀にもわたる破壊と共存、そして復元力レジリエンスを思い起こさせるにふさわしいものなのである。

オマリ・モスクの非常に重層的な歴史から予見できることがあるとしたら、それは、ガザの人々は再びこれらの石を持ち上げるだろう、ということである。


(翻訳:中鉢夏輝)

出典:Stephennie Mulder, Gaza’s oldest mosque, destroyed in an airstrike, was once a temple to Philistine and Roman gods, a Byzantine and Catholic church, and had engravings of Jewish ritual objects, The Conversation (January 17, 2024).

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.


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