ニッケル産業の周辺で生きる:豊かさの約束、破壊の現実


アグス・ドウィ・ハストゥティク

モンガベイ』2024年4月3日

〔訳者前書き〕
本記事は環境保全に関する情報サイト「モンガベイ・インドネシア」に掲載された、インドネシア東部の北マルク州におけるニッケル採掘に関する記事の日本語訳です。ニッケルは電気自動車のバッテリー生産に欠かせない金属として、世界中で需要が高まっています。世界最大のニッケル埋蔵量を持つとされるインドネシアでは、ニッケル鉱山の採掘が国家プロジェクトとして進められています。インドネシア最大の環境NGO「ワルヒ」の国際関係マネージャー、アグス・ドウィ・ハストゥティク氏は本記事で、鉱山開発の現場で起きている人権や環境をめぐる問題について論じています。


ニッケル産業の周辺で生きる:豊かさの約束、破壊の現実

その日の午後は空がオレンジ色で、空気もほこりっぽかった。通りは人混みで溢れ、劣化し始めたアスファルトの渋滞道路では、バイクや乗客を乗せた送迎車など、様々な車両が行き交っていた。ちょうど仕事から帰ろうとしている人もいれば、シフトを代わろうと準備する人もいた。人々は空気中に舞う塵から身を守るためにマスクを着用していた。

ボロボロの道を歩いていると、石炭と硫黄の匂いが鼻を突いた。ニッケルの原料を加工する精錬工場(PLTU)が煙を出しながら道路沿いに並び、危険物質の粒子を撒き散らしていた。機械は24時間ずっと稼働しており、石炭の廃棄物を載せたトラックが走り回っていた。
これが、私たちが北マルク州ハルマヘラのウェダ・ベイ工業団地(IWIP: Industri Weda Bay Industrial Park)地域に位置するルリレフ村を訪れたときの雰囲気だった。ウェダ・ベイ工業団地はニッケル採掘のためのメガプロジェクトを進める工業地帯である。2022年時点で面積は5,000ヘクタールで、将来的には15,000ヘクタールに拡大する予定だ。ルリレフは2018年以来ウェダ・ベイ工業団地の工業地帯建設の影響を受けた最初の周辺4村のうちの1つである。

ワルヒ・北マルクのデータによると、ウェダ・ベイ工業団地を支える空港、港、その他の工業施設を建設するために、およそ129ヘクタールの土地が埋め立てられた。以前は密生していたマングローブ林も、埋め立てによって全て消失した。埋め立ては今後も続くだろう。
ウェダ・ベイ工業団地の周辺地域を巡っているあいだ、非常に多くの疑問が私の頭をよぎった。これら全ては何のためにあるのだろうか。作業員の住居はプロジェクトの現場に非常に近いのに、どうして人々はこのような状況で暮らすことができるのか。毎日の食事は安全で、埃で汚されていないだろうか。
政府はこのプロジェクトを優先的かつ戦略的なものと位置づけ、豊かな暮らしを約束しているのに、なぜ地域住民は豊かな暮らしから程遠い生活を送っているのだろうか。

ウェダ・ベイ工業団地株式会社の工業地域周辺では汚染によって空がオレンジ色にくすんでいる。写真:アグス・ドウィ・ハストゥティク

インドネシアのニッケル産業は過去10年間で急速に発展した。世界最大のニッケル産出国になるというインドネシア政府の野望も、化石エネルギーから環境にやさしい再生可能エネルギーへの移行というイシューを利用しながら、ニッケル採掘の大規模な拡大を後押ししている。インドネシアは世界最大のニッケル埋蔵国として記録されている。

エネルギー鉱物資源省のデータによると、インドネシアには合金鋼を含めて少なくとも7,200万のニッケル(ni)埋蔵量があり、これは世界のニッケル埋蔵量1億3,941万9,000トンの52%に相当する。ニッケル埋蔵量が最も多い3つの地域は、スラウェシ南東部(32%)、北マルク(27%)、スラウェシ中部(26%)である。

ワルヒのデータによると、現在インドネシアの4つの州、すなわち中部スラウェシ州、南スラウェシ州、南東スラウェシ州、北マルク州に265社のニッケル関連企業があり、103万7345.22ヘクタールの土地を管理している。

陸上輸送のためのバッテリー駆動のEVプログラムの加速に関する大統領令(2019年第55号)の施行は、インドネシア政府の野望に拍車をかけている。本大統領令は、運輸部門におけるエネルギー効率、エネルギー安全保障、省エネを向上させるとともに、クリーンエネルギー、きれいで環境に優しい空気をつくり出し、温室効果ガス排出量を削減することを目的としている。

インドネシアにおけるニッケル採掘の大規模な拡大にともない、地域社会が被る森林減少と汚染による社会経済的・環境的被害も同じくらい増加している。ニッケルは電気自動車を促進するため「環境に優しい」とよく言われるが、原材料の抽出プロセスは「環境に優しい」とは程遠いものだ。

ハルマヘラ中部ウェダ・テンガ郡レリレフはウェダ・ベイ工業団地プロジェクトの開始以来、政府の野望の影響を受けた村の1つである。この村はウェダ湾沿岸に位置し、レリレフ・ウォビュレンとレリレフ・サワイ・アケドマの2つの行政区に分かれる。

ウェダ・ベイ工業団地ができる以前、社会生活は漁業と農業で成り立っていた。ウェダ・ベイ工業団地ができてからは、ハルマヘラや島外など他の地域からの外来者とともに、一部の住民は会社の従業員になった。

中央ハルハヘラの埋立地はウェダ・ベイ工業団地株式会社の工業地帯となった。写真: Christ Belseran/Mongabay インドネシア

以前は、レリレフ村の自然環境はマングローブ生態系で覆われ、そこは地域社会が日頃のニーズを満たせるだけの魚など海洋生物や野菜類など月々で成長する作物の生息地となっていた。

このプロジェクトが始まる前、人々は海岸からそれほど遠くない海域で魚を獲っていた。「魚は自分が安全ではなくなったことを感知しています。魚たちは遠くに逃げるでしょう。今、私たちは海岸から遠く離れたところまで行くしかありません。運用コストの割に〔収穫高が〕合わないです。私たち漁師が遠くに行ったとしても、そこに魚がいるかどうかはわかりません」レリレフ出身のサワイ人アムドゥッラー・アムバル——普段はドゥラと呼ばれる——は不平を漏らした。

かつては豊富にあったカツオ、マグロ、サバ、タカサゴなど様々な種類の魚は今では希少になった。通常は最大で1マイルに及んだ伝統的な漁師の漁場も埋立によってより狭くなってきている。

同じことは専業農家たちにも起きている。「全ての農地は企業の廃棄物で汚染されており、その土地も奪われようとしています。植えられるものがありますが、生活の糧になるものはほとんどありません」

レリレフ村の住民に選択肢はあまり無い。より多くの資本を持っている人々は、地域外からの労働者に貸すための下宿を建て、収入を増やすことができて幸運だ。十分な資本を持たない人々は、簡単には生活のニーズを満たすことができない状況に適応しなければならない。毎日飯にありつくだけで精一杯である。

レリレフはまた、水の確保に関して深刻な問題を抱えている。この影響は、ウェダ・ベイ工業団地の運用開始後、はっきりと浮き彫りになった。以前使っていた水源である地下水はさらなる汚染によって失われつつある。住民たちはきれいな水を手に入れるために、決して安くない追加費用を支払わなければならない。

「ここでは、私たちは一軒一軒が深井戸を掘っています。ウェダ・ベイ工業団地が来る前は井戸水を使っていましたが。なぜならウェダ・ベイ工業団地の影響が既にかなり大きくなっていたからです。私たちは頻繁に井戸を掘削しなければならず、一度の工事で4000万ルピアから6000万ルピアがかかります」とドゥラは話した。

何十年もの間、ドゥラは家族とレリレフに住み続けてきた。彼の小さな家では、彼は子供と孫とともに住んでいる。鉱山の付近に住むことは簡単なことではない。彼らは息を吸うたびに硫黄の匂いでむせてしまうからだ。

「ええ、どうにか、私たちはここに長い間住んできましたし、食べ物もここで手に入れてきました」と話すドゥラの妻ヌーフ・Sも漁師である。

その日の夜、彼女は家の裏で捕まえた魚を夕食に提供してくれた。「この魚は、お母さんが家の裏で捕りました。新鮮な魚です」

問題だらけだとしても、ドゥラ一家はレリレフを離れるつもりはない。なぜならここが彼らの生まれた場所だからだ。ドゥラ一家は地域社会に豊さをもたらすと喧伝されていたこのプロジェクトが、蓋を開けてみたら逆効果だったことを残念に思っている。

彼ら曰く、企業や政府は鉱山周辺社会のニーズに応えられていない。

多くのごみも海岸に捨てられている。「ここではごみも増えつつあります。特にプラスチックごみが増えていますが、これについても政府は応えてくれません」

中部ハルマヘラ、ウェダ・ベイ工業団地株式会社工業地帯のPLTU。写真:アグス・ドウィ・ハストゥティク

ワルヒ・北マルク調べによると、多くの水サンプルは、ウェダ湾とオビ島の水質が重金属で汚染されていることを示している。

トゥルナテにあるカイルン大学のムハンマド・アリス教授がコンパス社と共同で行った研究報告でも、ニッケル鉱石の採掘・加工活動によってハルマヘラの多くの水域で重金属汚染が見られることが明らかにされた。さらに悪いことに、これらの水域は魚の産卵・繁殖地であるだけでなくマグロの回遊ルートでもある。

北マルクは79%が海、21%が陸の諸島州である。諸島州である北マルク州のランドスケープは気候危機に対して脆弱である。しかし、企業に対して北マルクにおける採掘権という特別な権利を与える自然資源管理のあり方は、この地域が将来直面しなければならない脆弱性を増大させている。

「北マルクの住民の90%は海岸と森林地域に依存しています。そして、国家戦略プロジェクトを通じて国が促進する投資によって、この地は破壊されました」とワルヒ・北マルクのエグゼクティブディレクターであるファイザル・ラトゥエラは述べた。

ウェダ・ベイ工業団地は北マルクにおける国家戦略プロジェクトの1つである。このプロジェクトはエネルギー転換を促進するための政府の政策枠組みに組み込まれている。

「これは政府が作成したまやかしの解決策です。いま、国民の経済は2世代にわたって削り取られている」

ラトゥエラは、採掘を即時停止し、プロジェクトの影響を受けた全てを回復する必要があると述べた。

昨年 11 月に ウェダ・ベイ工業団地を訪れたとき、鉱山周辺の地域社会の暮らしと彼らが受けている「まやかし」の豊さについて、基本的な理解を得た。採掘が豊かさをもたらすというインドネシア政府の主張とは真逆で、現実はそうではないことを示している。レリレフでは、ニッケル採掘による環境破壊と地域社会における経済的・社会的損失は避けられない。

ニッケルを利用しながら、電池自動車のエネルギー転換から利益を得ようとするインドネシア政府の野望は、危機をさらに悪化させるだろう。

これはインドネシアだけの問題ではない。UNEPの最近の報告によると、世界の資源利用量は過去50年間で3倍に増加した。インドネシアは2020年の国内ニッケル生産国のトップ10に入っている。インドネシア政府の世界最大のニッケル生産国になりたいという願望は、北半球の国々で生産される電気自動車に用いる原材料に対する世界的な需要と切り離せないということは否定しがたい。それらはエネルギー転換のための解決策として一体化しているのだ。

実際のところ、インドネシアにおけるニッケルの採掘と産業化は気候危機への対応などではなく、むしろ地上、地表、地下における自然資源の商業資本化にほかならない。では、ニッケルの次には何が採掘されるだろうか?

*Penulis Agus Dwi Hastutik, merupakan Manajer Hubungan Internasional Walhi Nasional (Translated with permission of the author)

サムネイル画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Electric_Car_recharging.jpg

(翻訳:中鉢夏輝)


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