ハーリド・ムスタファー・メダニー
『MERIP』310号(2024年春号)
原文リンク:https://merip.org/2024/04/the-struggle-for-sudan/
はじめに
2023年4月15日、スーダン国軍(Sudanese Armed Forces: SAF、以下国軍)のアブドゥルファーティフ・ブルハーン将軍と即応支援部隊(Rapid Support Forces、以下RSF)のリーダーであるムハンマド・ハムダーン・ダガロ、通称ハメティの同盟が崩壊し、同国は未曾有の戦争へと突入した。
戦闘は当初、首都ハルトゥーム周辺で始まったが、すぐにダルフール、ポートスーダンなど、スーダンの他の地域へ広がった。そして2023年12月までには、青ナイル川と白ナイル川の合流点にあり、同国の農業の中心地で以前は平和であったゲズィーラ州にまで及んだ。
戦火は農村部と都市部の両方に及んでおり、その規模も大きいため、深刻な人道危機を招いている。900万人ものスーダン人が避難し、そのうち100万人以上が国境を越えた。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ハルトゥームとダルフールにおいて民族浄化が行われ、数千人の民間人と村が標的となったことを報告している。この危機は、食料不安によってさらに深刻化されている。戦闘によって国土の大部分で農業生産が中断しているため、人口の約60%が影響を受けている。国連世界食糧計画(WFP)は最近、同国が「世界最大の飢餓危機」に直面していると警告した[i]。
現地では、援助団体の渡航許可が下りなかったり、団体が進行中の戦闘のために援助が必要な地域に入ることができなかったりするなど、官僚的な妨害によって人道的援助が妨げられている。一方、届けられた援助も、作戦の一環あるいは戦争に反対する市民を罰するために、国軍とRSFの両方によって略取されたり、流用されたりする危険にさらされている。戦争当事者はどちらも医療施設を標的にしている。病院や医療施設の70%は機能しておらず、人々は治療可能な病気や怪我の蔓延によって命を落としている。
現在の状況は、民衆蜂起がオマル・アル=バシール大統領のイスラーム主義・軍事政権を倒したスーダンを世界が称賛のまなざしで見守った2018年末から2019年とは全く対照的であり、またその直接的な結果でもある。30年にわたる権威主義的支配の後、革命はたとえ脆くても民主主義の新時代への突入を約束した。だが、現在スーダンで長期化している紛争は、スーダン国家の根幹、ひいてはサヘル地域とアフリカの角の安定を脅かしている。
経済危機と民衆の抗議行動のルーツ
スーダンにおける戦争は、スーダン人が「栄光の革命」と呼ぶ2018年の革命の、社会的、地域的、民族的な分断を超えた強度と規模の直接的な結果によるところが大きい。
オマル・アル=バシールの権威主義政権を最終的に崩壊させた民衆の抗議行動の背景には、2011年7月9日の南スーダン分離独立があった。10年以上にわたって相対的な経済成長を続けてきたスーダンは、南スーダンの分離独立によって石油収入の多くを断たれ(スーダンの石油資源の3分の2は南部にある)、経済危機の深刻化につながった。2000年から2009年の間、石油はスーダンの輸出収入の86%を占めていた[ii]。 南部の分離独立により、スーダンの石油収入の75%が失われた[iii]。
石油収入が無くなることで、旧体制のパトロネージ・ネットワーク*が侵食され、バシール政権与党の国民会議党(NCP)指導部内の対立を強めた。また、この減収が都市部と農村部の両方で、広範囲でのスーダン社会における社会的・経済的な不満を助長し、2018年12月の民衆蜂起の下地を作った。
* 訳者註:パトロネージ・ネットワーク:体制とその利益を維持するために、体制側とその後援者とのあいだで有形無形の資源が授受される関係性を指す。バシールは公式・非公式の治安部隊や軍指導部、イスラーム主義勢力などに対してパトロネージを与えることで強固な政治体制を維持してきた。南スーダンが独立するまではその代表的な資源が石油であった。
——石油ブームの時代、スーダンの公式経済は拡大していたが、その恩恵は平等に分配されていなかった。
抗議行動は、ハルトゥームの北約200マイル [訳者注:約322 km] に位置するナイル川流域の労働者階級の都市アトバラで、中学生を中心に始まった。その後、数千人の住民がすぐに抗議活動に合流した。最初のきっかけは、パンの値段が3倍になったことだった。しかし、蜂起が始まった周縁地域では、国家が石油収入を失う以前から経済的不満があった。石油ブームの時代、スーダンの公式経済は拡大していたが、その恩恵は平等に分配されていなかった。サービス、雇用、インフラ事業の配分は依然としてハルトゥーム州に集中し、都市部の有権者をなだめるように企図されていた。ある研究によれば、革命前の20年間、北部の中央三角地帯にある約5つの主要プロジェクトが、開発支出額の60%を占めていたという[iv]。
2009年(蜂起の10年前)の時点で、農村人口の貧困率は58%であったのに対し、都市人口では26%であった。さらにこの時期の数字によれば、貧困のレベルはダルフールや東部の方が、ハルトゥームや中部の諸州よりもはるかに高かった[v]。地域間の不平等や、国の中央部と周縁部との間の不平等は、2018年のスーダン史上初めての民衆蜂起を引き起こした最初の抗議行動が、首都ではなく周縁部で勃発した理由を部分的に説明している。
しかし数日のうちに、反政府デモは北部地域の幅広い都市や町、そして首都ハルトゥームに広がった。デモ参加者は、アラブの蜂起でよく知られる「アル=シャアブ・ユリード・イスカート・アル=ニザーム」(民衆は体制の崩壊を望んでいる)などのスローガンを唱えた。
民衆動員の新たなネットワーク
周辺都市に続き、ハルトゥームにおいても、パンや燃料の価格高騰、流動性危機に伴う深刻な経済危機に対する抗議としてデモが始まった。しかし、彼らの要求はすぐにバシールの退陣要求へと発展した。
革命に先立ち、スーダンの若い指導者らは医師、薬剤師、弁護士、中等学校教師らの労働組合と連携した。スーダン専門職組合(The Sudanese Professional Association: SPA、以下、専門職組合)という医師、エンジニア、弁護士などで構成される独自の(あるいは非公式の)労働組合・専門職組合間ネットワークは、抗議行動のオーガナイズと日程調整を主導した。2018年12月下旬、SPAはハルトゥームにある国会へのデモ行進を呼びかけ、政府に公共部門の賃上げと非公式の専門職・労働組合の合法化を要求した。治安部隊が非暴力の抗議行動に暴力を行使してからは、現政権であるNCPの退陣、スーダン政府の構造改革と民主化へと要求が拡大した。
彼らの要求は、2011年、2012年、2013年のものを含む、それまでの民衆の抗議と共鳴した。しかし、2018-19年の抗議行動は、その長さと地理的な広がりにおいて前例のないものだった。また、極めて新しく、革新的で、持続的なプロセスをたどった。デモ参加者たちは、高度に中央集権化され、ほとんどスーダン人の中産階級に限定され、あらゆる場所にいる国家治安部隊に対抗する戦略を欠いていた、これまでの抗議行動の過ちから学んだのである。
SPAが主導し、若者主導の地域抵抗委員会(Neighborhood Resistance Committees: NRCs)によってストリートレベルでオーガナイズされたデモは、調整され、予定され、基本的に純粋な数よりも持続可能性を重視するよう設計されていた。抗議行動は、中流階級、労働者階級、貧困層の居住区にも広がり、東は紅海沿岸の州まで、西はダルフールまで、ハルツームから遠く離れた地域の抗議者たちとも連携した。
地域的な規模だけでなく、抗議行動はいまだかつて見られなかったレベルでの、階級や民族の枠を超えた連帯によって特徴づけられた。若い活動家や専門職団体のメンバーは、イスラーム主義国家の政治的言説に異議を唱えただけでなく、これらのデモの文脈において、階級を超えた同盟関係を構築する上で重要な役割を果たした。彼らが使用したスローガンは、民族的、人種的、地域的な隔たりを超えて共鳴し、支持を得るようにデザインされていた。
半年間にわたる抗議行動の間、大学キャンパスや中等学校に加えて、民間部門や公共部門の労働者の間でも、ストライキ、業務停止、座り込みが行われた。最も重要な例としては、紅海に面したポートスーダンの労働者による、南部港の外国企業への売却の無効化を要求するストライキや、国内で最も重要な銀行、電気通信事業者、その他の民間企業の従業員による複数の業務停止と抗議行動が挙げられる。
ストリートの抗議者、地域抵抗委員会、専門職組合の中心的な役割に注目が集まるのは当然だが、スーダンの野党もまた、抗議行動をオーガナイズするだけでなく、抗議行動の要求に思想的な支援を提供するという役割を果たした。複数の政党が2019年1月、まさに抗議行動のさなかに「自由と変革の宣言」の起草を主導した。専門職組合とともに、スーダンの主要政党連合、とりわけ「ナショナル・コンセンサス・フォース」〔訳者註:別名イジュマア〕と「スーダン・コール」(ニダー・アル=スーダン)は、自由と変革勢力(Forces of Freedom and Change、以下FFC)の旗印の下に団結した反対勢力の幅広いネットワークの形成を推進した。FFCは主に、インフォーマル・セクターで働く人々を含む社会階層間の調整を担った。
——最も重要なこととして、FFCは中流階級の若者たちや団体だけでなく、非公式に組織されたNRCs(その中には都市部のより貧しい地区を代表するものもあった)にも関与していた。
確かに、そして最も重要なこととして、FFCは中流階級の若者たちや団体だけでなく、非公式に組織された地域抵抗委員会(その中には都市部のより貧しい地区を代表するものもあった)にも関与していた。これらの地域抵抗委員会は、2013年の反バシールの市民的不服従にルーツを持ち、抗議行動の歩兵としての役割を果たした。彼らは参加者を治安部隊から遠ざけ、抗議行動を維持する上で中心的な役割を果たした。治安部隊や民兵が蜂起を鎮圧するために激しい暴力を用いたにもかかわらず、である。
主要な野党の相対的な強さと元来の正統性、そしてストリートの抗議者たちや非公式の組合との連携が、バシールを追放した抗議行動を維持する上で最も重要な役割を果たした。革命後、地域抵抗委員会はより直接的な政治的役割を担うようになり、革命の目標に合致した、合法的で民意に基づく市民民主主義への移行の青写真をめぐって草の根の合意形成に取り組むようになる。
反革命の暴力
しかし、2019年4月のオマル・アル=バシール政権崩壊後も、スーダンは典型的なハイブリッド権威主義体制であり続けた。
当初、バシールに取って代わったのは、暫定軍事評議会という形をとった軍事政権であった。暫定軍事評議会のトップはスーダン国軍(SAF)のブルハーン将軍で、副リーダーはRSF司令官のダガロだった。軍の政権掌握に対し、完全な民政への移行を求める座り込みや抗議行動が続いた。2019年6月3日、RSF民兵を含む暫定軍事評議会の治安部隊はこれらの座り込みを暴力的に鎮圧した。数百名を殺害し、数千名を負傷させたこの事件は、ハルトゥームの 「座り込み虐殺」として知られるようになった。
FFC(自由と変革勢力)に代表される文民側の指導部は7月にようやく軍と合意に達した。2019年8月までに、両当事者は憲法憲章の形で表向きの権力分担の合意に署名し、FFCはアブドゥッラー・ハムドゥクを首相に推した。この憲章は、暫定政府と複数の野党グループとの間で調印された2020年ジュバ合意で修正された。
しかし、暫定政府は明確な権力分立を確立することはなかった。憲法憲章を通じて、軍部は連立政権の文民指導者が提出するいかなる項目も拒否する権利を保持した。さらに、軍部は(座り込み虐殺を含む)過去の犯罪の捜査から免除され、司法長官や検事総長のような文民閣僚の任命に拒否権を行使した。このように暫定政府は、軍部と文民指導部の権威が著しく不均衡な状態で運営されていた。
スーダンの地域抵抗委員会と大衆の抗議行動は、5つの重要な優先事項を推し進めた(そして現在も続いている)。第1に、軍指導者との新たな協力関係を拒否することを前提とした、完全な民政移行である。交渉なし、協力なし、軍の正当性なしという「3つのノー」のスローガンが表明された。第2に、戦闘による直接的な影響を受けている草の根の人々をより包摂するようジュバ協定の再作成を要求している。第3に、彼らは憲法評議会設置に向けた憲法改正の議論を要求している。その評議会とは、過去の構造的・民族的不平等を完全に考慮に入れたものであり、最終的に自由で公正な選挙を監督するであろうものだ。第4に、座り込み虐殺を含め、民間人に対する暴力に関与した国家主体に対する説明責任の要求である。そして最後に、敵対行為の停止後、立法評議会を速やかに設置することを求めている。
——結局のところ、ハムドゥク側と暫定移行政府の文民部門が、抵抗委員会の重要な要求と参加を取り入れることに失敗したため、説明責任と正義を求める民衆の要求が具体的な進展に結びつかなかった。
この市民社会組織のネットワークの中には、専門職組合(SPA)や「ギリフナー」と「スーダン・チェンジ・ナウ」といった2つの主要青年組織など、文民政府に支持を投じていたグループが含まれる。結局のところ、ハムドゥク側と暫定移行政府の文民部門が、抵抗委員会の重要な要求と参加を取り入れることに失敗したため、説明責任と正義を求める民衆の要求が具体的な進展に結びつかなかった。そして、文民指導部に対する社会的基盤と支持が制限された。選挙準備のための立法議会の設立が遅れたことで、ハムドゥクと諸政党の人気と正統性がさらに損なわれた。軍指導部は、当時のブルハーンとダガロの強力な協力関係のもと、こうした分裂を巧みに利用し、10月のクーデターへの道を開いた。
2021年10月25日、スーダン国軍(SAF)のブルハーン将軍とRSFのダガロ司令官が手を結びハムドゥクに対するクーデターを開始した。その直後、民政の再開を求める抗議行動が粘り強く広げられた。民衆の抵抗委員会が主導したこの抗議行動により、国軍とRSFは市民の反対運動側との交渉に同意せざるを得なくなった。この交渉は、現在では破棄された枠組み合意への道を開くものであり、ブルハーンとダガロの激しい対立に火をつけた。具体的には、国軍とRSFは、後者を正規の国軍に統合する問題で激しく対立した。さらに、両勢力は、革命が目指してきた重要な目的であった、莫大な経済的財産の解体を拒否した。
2人の将軍による、治安部門の改革をめぐる意見の相違と、莫大な国富を支配し続けたいという野望という2つの最も重要な要因によって、スーダンは戦場になった。
RSFの起源
イスラーム主義勢力の支持を受けるスーダン軍将校とRSF民兵との対立関係が国家を破壊する恐れがあるのは、彼らの長きにわたる協力関係の歴史が今日の戦争をもたらしているためである。
RSFの誕生は2000年代初頭のダルフール紛争に遡る。2003年ダルフールで勃発した反乱を受けて、バシール政権は焦土作戦による反乱鎮圧戦争を起こし、20万人以上の市民を死に至らしめた。この作戦は主に、ハルトゥームで政府が結成し、資金を提供し、管理する民兵組織、通称ジャンジャウィードによって行われた。RSFの現司令官であるダガロ自身も、この数年間、ジャンジャウィードの司令官を務めていた(ブルハーンもダルフールに駐留し、国軍が中央政府に代わって反乱鎮圧活動を調整できるようにしていた)。
——ダルフールにおける反乱勢力の脅威とハルトゥームで繰り返される民主化デモを懸念したバシールは、RSFをスーダン軍の対反乱部門として制度化した。
2013年、イスラーム主義政権による国軍の再編に伴い、ジャンジャウィードはダガロ指揮下のRSFに組み込まれた。ダルフールにおける反乱勢力の脅威とハルトゥームで繰り返される民主化デモを懸念したバシールは、RSFを国軍の反乱鎮圧部門として制度化した。民兵を投じた反乱対策、民衆の抗議対策に加え、第3の目的には、国の常備軍の弱体化もあった。これは、軍事クーデタによってバシールの政党(NCP)を追放しようとする中堅将校の試みを妨げるためである。バシールがダガロにハメティ、すなわち「私の守護者」とあだ名をつけたのは有名な話だ。2017年、統治者〔バシール〕は行政命令を通じてRSFを合法化し、独立した治安部隊として正式に設立した。それ以来、RSFは国の準軍事民兵として分類される傾向にある。
2019年の革命後、ブルハーンはハルトゥーム首都圏の住宅地全域にRSFの展開を許可・推進し、首都が戦争勃発時の暴力の震源地になる舞台を整えた。
2023年4月、イスラーム主義のNCP前政権、すなわちかつての後援者に対して、表向きには忠実な民兵部隊であるRSFが銃口を向けることになったのは、スーダンの歴史における致命的な皮肉である。そうなった理由は主に2つある。RSFが指揮統制の自律性に固執したこと、そして、国内の経済的・政治的優位性を得ようとするハメティ自身の高まる野心を実現しようと執着したことである。
「不正」経済をめぐる戦争
スーダン軍、特にその上層部にいる権力者は、現在のスーダンの地底国家(ディープ・ステート)の基礎と、国内経済と軍事・安全保障上の利益との結びつきに根ざしている。
1989年のクーデターでバシールがイスラーム主義勢力に支持される軍事政権を誕生させた後、政府はタムキーン(エンパワーメント) という経済戦略を打ち出した。この政策によって、国民イスラーム戦線(NIF)やのちの国民会議党(NCP)を中心に組織された国内のイスラーム主義エリートたちに有利な政治的・経済的ヘゲモニーが確立された。建前上は新自由主義的な市場改革政策の下で、国営企業は政権の協力者に売却された。実業家たちは国民会議党支持者に自社株を与えるよう強要され、政権に友好的な企業には全額免除とはいかないまでも減税が行われた[vi]。
政権への忠誠心を買うだけでなく、国家は政府や市民社会からライバルを粛清した。政権を奪取すると、イスラーム主義政権は数千人の軍人と公務員を官僚機構から解雇した[vii]。
——しかし、タムキーン経済政策によって結果的にイスラーム主義者たちがスーダンの正規・非正規両方の経済部門を独占したことは、スーダン軍の経済上の役割も拡大したことも意味する。
現在の戦争を彷彿とさせるが、イスラーム主義勢力の指導者たちは小麦、小麦粉、石油製品などの日用品を備蓄し、選択的に分配しはじめた。特に、石油は、南部スーダンが2011年に分離独立するまで、イスラーム主義と権威主義に基づく政権の耐久性を保つうえで中心的な役割を果たした。石油収入によって潤ったバシール政権は、それを直接国家の財源にまわし、その収入を利用して国中のパトロネージ・ネットワークを強化・拡大し、政権支持者とその地元に資金を流した。しかし、タムキーン経済政策によって結果的にイスラーム主義勢力がスーダンの正規・非正規両方の経済部門を独占したことは、スーダン軍の経済上の役割が拡大したことも意味する[viii]。1990年代初頭に軍事産業公社(MIC)が設立され、スーダン軍は軍用装備品を生産する12社の管理権を得た。スーダン軍の経済活動はのちにMICを超え、さまざまな民間企業を包摂するまでに拡大した。
このような背景から、2018年から19年にかけての蜂起後、経済が政治的競争の重要なアリーナになった。革命後の移行期に、その中心には2つのエリート派閥が出現した。1990年代に地底国家の構築に主な責任を負っていた、国民会議メンバーと結びついたNIF系イスラーム主義連合の残党と、スーダン国軍とRSF民兵の指導者で構成される暫定軍事評議会である。
以前は、イスラーム主義勢力は比較的首尾一貫した集団だったが、〔政権〕移行期には、暫定軍事評議会を統率する軍指導者と、悪名高い武装派の「影の旅団」(カッターイブ・ズィール)を含む、国家の安全保障を広く支配する復古的イスラーム主義思想集団との間で亀裂が生じた[ix]。これを受けて、暫定軍事評議会はイスラーム主義勢力が所有する多くの大企業を支配下に置き、スーダンの諜報機関の権力を削減した。さらには、資産を没収し、銀行口座を閉鎖することで、いくつかの民兵組織の解体を目指した。しかし、2021年10月25日のクーデターののち、市民社会における主要な支持層や正統性を持たないブルハーンはいつの間にかますます孤立していった。彼はすぐさまイスラーム主義勢力との関係を修復し、彼らの指導者を官僚や国家の治安機構のポストに復帰させた。両者は現在、RSFと戦っている。
イスラーム主義強硬派の支援を受ける軍指導者たちは、深層国家を独占していたために享受していた莫大な金融資産と政治的優位性を維持・復活させようと苦闘している。そのため、現在の戦争におけるブルハーンの目的は、スーダン軍が関わる企業や投資、そしてスーダン軍とイスラーム主義勢力が国家を掌握するためにインフォーマル経済を操作してきた長い歴史によって決められている。彼らが、人的コストに関わらず必要なあらゆる軍事的手段によって、この目的を実現しようと躍起になっているという事実によって、現在進行中の内戦における大規模な暴力の論理、それもとりわけ市民——彼らの大半が深層国家の遺産を解体しようと闘ってきた——を標的とする論理は部分的に説明される。実際、革命における当初からの主目的の一つは「政権を解体し、その『エンパワーメント』政策を撤廃する」だった[x]。
石油から金へ
石油ブームに伴うエンパワーメント政策(タムキーン)は、イスラーム主義勢力が支配する深層国家の興隆に拍車をかけた。しかし、現在の戦争では、ハメティの準軍事組織を強化し、政治的暴力を生み出しているのは、輸出用の金の採掘である。
2011年に南スーダンが分離独立したことで石油収入を失ったのち、バシールは、弱体化したパトロネージ・ネットワークを支えるため、金に目をつけた。2012年から2017年にかけて、金の生産量は141%という天文学的な伸びを示した[xi]。革命の1年前の2018年には、スーダンは世界第12位の産出国となっていた。
しかし、石油とは異なり、この新しい金ブームからの利益は、はるかに脱中心化された方法で分配されている。金の輸出のほとんどは違法に密輸されており、主にUAEの市場に流れている。そのため、金の価値の大部分は、打撃を受けた公式経済から逃れ、国家が歳入を生み出し、市民に資源を配分する能力を損なっている。最近の調査によると、スーダンが報告した金の輸出額と、取引相手が記録した金の輸入額との間には、41億米ドルもの開きがあった[xii]。この乖離は、スーダンの金収入の47.7パーセントが個人の手に渡っていることを示唆している。
軍とイスラーム主義勢力が牛耳る治安機構が、石油、アラビアゴム、ゴマ、武器、燃料、小麦、電気通信、銀行などの企業を支配しようと争うなか、ハメティは金を独占し(そして比較的規模は小さいが家畜や不動産も独占し)、戦争努力を拡大している。戦争を支える暴力は彼の個人的な富に直接的に関係しており、その大部分は不正な金取引への参加によって蓄えられたものだ。
国連安全保障理事会が発表した報告書によると、2015年には、ハメティの部隊はジャバル・アーミルの金鉱を支配下に置き、年間5400万米ドルの収入を得ていた[xiii]。この収入によって、ハメティはダルフール、ハルトゥーム、スーダン中部における暴力の主犯である、貧しく失業中の若者をリビア、チャド、マリ、ニジェールを含むサヘル全域からRSFにリクルートすることができた。彼の準軍事部隊は現在推定40.000人とされ、スーダン軍に比べ、その隊員たちは外部アクターからの資金援助や訓練へのアクセスをより享受している。
スーダンで最も儲かる商品として金が出現したことは、戦争の脱中央化した性質と、ダルフールとコルドファーンの金が豊富に取れる地域でRSF民兵が行なった高度な暴力を説明するのに役立つ。
代理戦争に油を注ぐ
スーダンの戦争を動かしている主な原動力はスーダン国内にあるが、地域の大国やその他の遠く離れた国々も影響力のある役割を果たしている。その筆頭が湾岸諸国、特にサウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)である。
ここでも、スーダンで最も儲かる商品としての金の出現は重要である。石油と異なり、金は略奪可能な資源であるため、UAEのような外部のアクターは、市民に対する暴力という結果にかかわらず、RSF側に与した介入をする動機を持つ。
金の不正取引だけでなく、ハメティは湾岸諸国の地域的利益や紅海に関する問題からの恩恵を受けてきた。サウジアラビアとUAEは長い間、ホルムズ海峡とバーブ・マンダブ海峡におけるイランの包囲網を懸念してきた。こうした懸念は、イエメンのフーシ派運動に対するイランの支援によって強まっていき、2015年にサウジ主導の連合軍による〔イエメンへの〕軍事介入を招いた。ハメティはこの戦争に民兵部隊を派遣したことで、サウジアラビアとUAEから数百万ドルを受け取っている。
RSF民兵の大半はイエメンから帰還した。しかし、イスラエルのガザ侵攻に呼応したフーシ派が商船を攻撃したことから、紅海における暴力がエスカレートしており、そのことで特にサウジアラビアは気を揉んでいる。サウジアラビア政府は米国とともに、ハルトゥームでどのような戦後政権が登場しようとも強力な同盟関係を維持するという戦略的観点から、二つの紛争当事者間の停戦合意の仲介を率先して試みている。
サウジアラビアとUAEはどちらもアフリカの角に軍事基地の設置に成功している——サウジアラビアはジブチに、UAEはエリトリアに。UAEはソマリア北部にも同様の施設を設置しようとしている。しかし、紅海地域での影響力をめぐる競争は、これらの国だけにとどまらない。カタル、トルコ、ロシアはいずれも同地域への関与を強め、スーダン側の紅海沿岸に軍事基地を設置することを打診している。
湾岸諸国のスーダンへの関心は戦略的な側面もあるが、より長期的な経済的目的にも起因している。これらの国々はアフリカへの投資を自国経済の多様化のための手段と捉えており、スーダンを玄関口とする資源豊富なアフリカ大陸での貿易拡大に躍起になっている。UAEはスーダンの紅海沿岸の港湾開発プロジェクトを積極的に続行している。2022年には、スーダン政府はUAEにポートスーダンの一部を管理する契約を正式に発注し、UAEが60億米ドルを投資すると報じられた。
——スーダンの農地は、湾岸諸国において急増する食糧輸入の需要を満たすためにも、極めて重要だ。例えば、スーダンの農業中心地であるゲズィーラ州では、新自由主義政策によって湾岸諸国からの投資(推定で総額80億米ドル)が促進されたことで、小規模農家は負債を抱え、小規模農業部門は壊滅状態に陥った。
スーダンの農地は、湾岸諸国において急増する食糧輸入の需要を満たすためにも、極めて重要だ。例えば、スーダンの農業中心地であるゲズィーラ州では、新自由主義政策によって湾岸諸国からの投資(推定で総額80億米ドル)が促進されたことで、小規模農家は負債を抱え、小規模農業部門は壊滅状態に陥った。湾岸諸国の投資家によって賃借(リース)された土地の多くが大規模なアグリビジネス・プロジェクトへと姿を変え、牧畜ルートを分断し、かつては天水栽培の自給自足農業に使われていた耕作地を吸収してしまった。かたや、スーダンの農民や農村労働者の困窮化は、今や土地を奪われた農村住民出身の隊員たちよる、RSF民兵のリクルートの成功を後押ししている。
エジプト側は、ブルハーン将軍とスーダン国軍を支持している。エジプト政府は自国の南方にイスラーム主義勢力が復活の影響が復活することを懸念しているだけでなく、ナイル川流域についても気を揉んでいる。2020年、エチオピアは青ナイル川に48億米ドルをかけて建設した水力発電ダム「グランド・エチオピアン・ルネサンス・ダム」の貯水を開始したが、エジプト政府はこれを自国の水資源に対する存亡の危機と見做している。ハメティはエチオピアだけでなくUAEとも緊密な関係にある。UAEはエジプトの大恩人であるにもかかわらず、影響力をめぐる地域のライバルでもある。そのため、エジプトはRSFが支配するスーダンを自国の国益を脅かす脅威とみなしている。
こうした相反的関係の結果、さまざまな「和平」の取り組みが、意図が食い違いながら、進められている。本稿執筆時点では、四つの異なるフォーラムが同時に、紛争派閥間の停戦と和平合意を求めて活動している——リヤド協議(米国とサウジアラビアが主導)、IGAD・アフリカ連合・イニシアチブ、反体制市民勢力およびエジプトと提携するスーダン軍との同盟を結ぶためのカイロでの協議、そしてUAEが主導するもバハレーン政府の後援下で行われる最近のイニシアチブである。
これらのイニシアチブは、スーダンの人民や市民社会が停戦のための実行可能な枠組みを見つけるのを支援する取り組みというよりは、背後にある国家の利益やそれぞれの紛争当事者との関係を反映している。
革命に関する不滅の約束
スーダン史における他の内戦とは対照的に、現在のスーダンにおける紛争当事者は市民社会における重要な支持者層も正統性も持ち合わせていない。両陣営がスーダンの人民に対して戦争を仕掛けているのは、まさに2018年の大規模な民主化革命をきっかけに、スーダンの市民社会が独裁的な軍指導者に支配される未来を力強く拒んだからである。
——2018年から2019年にかけての革命は、平和と民主主義への展望が、スーダンで存続してきた職能協会や労働組合、若者・女性団体からなる市民社会のなかに染み込んでいることを明確に示し、現在の惨憺たる戦争でそのことは確証された。
実際、2018年から2019年にかけての革命は、平和と民主主義への展望が、スーダンで存続してきた職能協会や労働組合、若者・女性団体からなる市民社会のなかに染み込んでいることを明確に示し、現在の惨憺たる戦争でそのことは確証された。戦争はこのつながりの重要性を確認したにすぎない。若者主導の抵抗委員会は今でも、それぞれ違いはあるにせよ、革命で目指したようにスーダンの紛争の根本的原因に対処することで、戦争を終わらせ、平和を回復することが優先事項であると同意している。
惨憺たる戦争の最中、多数の避難民を前にして、青年主体の影響力のある草の根的運動は、民主的な目的のために民族的、ジェンダー的、社会的隔たりを越えて協力する大きな能力を示した。例えば、十分な国際援助が無いなかでも、青年主体の「緊急対応室」**は、国中の相互援助を動員した。
** 訳者註: 損傷した電線の修理や避難民の避難ルート確保、食糧配布など、市民支援を行う青年主体のイニシアチブ。詳しくはこちらを参照。
スーダンの市民社会における政治的エリートの正統性が失われつつあるなか、若きリーダーたちはスーダン人の幅広い層から強い支持を集めつづけている。青年運動の指導者や女性団体、独立系研究者、芸術家、離散した数百万人ものスーダン人は、信頼を再構築し、紛争を解決し、持続可能な平和を築くというやり方で市民社会の強化に奮闘することによって、戦争という現在の困難に一丸となって立ち向かっている。
ハーリド・ムスタファー・メダニー (Khalid Mustafa Medani) はマギル大学の政治学准教授。主な研究テーマはグローバリゼーション、アフリカと中東におけるイスラーム主義や民族、非公式経済に関する政治経済学。
Khalid Mustafa Medani “The Struggle for Sudan,” Middle East Report 310 (Spring 2024).
サムネイル画像:2019年、ハルトゥームにある軍本部前にて。(翻訳者撮影)
翻訳:清水有理、中鉢夏輝
[i] “Sudan crisis sends shockwaves around the region as displacement, hunger, and malnutrition soar,” WFP, February 19, 2024.
[ii] The National Population Council, Ministry of Social Welfare and Security, “Sudan Millennium Development Goals Progress Report, 2010,” July 23, 2012, p. 67.
[iii] IMF Country Report No. 13/318: “Sudan: Interim Poverty Reduction Strategy Paper,” (October 2013), p. 6.
[iv] “Sudan: Public Expenditure Review, Synthesis Report,” World Bank, Report no. 41840-SD. Washington DC. December 2007.
[v] World Bank: “The Sudan Interim Poverty Reduction Strategy Paper Status Report,” (October 2016), p. 1.
[vi] Ahmed Gallab, The First Islamic Republic: Development and Disintegration of Islamism in Sudan (Surrey: Ashgate, 2008).
[vii] Anne L. Bartlett, “Dismantling the ‘Deep State’ in Sudan,” Australisian Review of African Studies, 41/1, (2020), pp. 51-57.
[viii] Harry Verhoeven, “The rise and fall of Sudan’s Al-Ingaz Revolution: The Transition from Militarised Islamism to Economic Salvation and the Comprehensive Peace Agreement,” Civil Wars 15/2 (2013), pp. 118-140.
[ix] “Burhan lets the Islamists back in,” Africa Confidential 62/10 (May 12, 2022).
[x] “Al-Burhan forms committee to dissociate al-Bashir’s regime in Sudan,” Middle East Monitor, December 11, 2019.
[xi] “Analyzing Trade, Oil and Gold: Recommendations to Support Trade Integrity in Sudan,” Global Financial Integrity, May 2020, p. 3.
[xii] “Analyzing Trade, Oil and Gold: Recommendations to Support Trade Integrity in Sudan,” Global Financial Integrity, May 2020, p. 3.
[xiii] “U.N. Panel of Experts Reveals Gold Smuggling and Cluster Bombs in Darfur,” Relief Web, April 12, 2016.