化石オリエンタリズム:帝国性インペリアリティのエコロジーと資本の問題

モハメド・アメル・メジアン

(ブラウン大学)

〈訳者まえがき:以下に掲載するのは、哲学者のモハメド・アメル・メジアン氏による英語原稿「化石オリエンタリズム:帝国性インペリアリティのエコロジーと資本の問題」(Fossil Orientalism: Ecologies of Imperiality and the Queation of Capital)の日本語訳である。メジアン氏にはもともと「世俗新世はあるのか?」への導入として日本の読者にむけた短いメッセージを寄せてくれないかと依頼していたのだが、届いたのはこちらの予想をはるかに上まわる分量の論考だった。本文をお読みいただければわかるように、メジアン氏は2冊の単著の執筆にいたる思索の過程をつぶさに明かしてくれた。日本語圏ではまだほとんど知られていない彼の研究の一端をここに紹介できることを嬉しく思う。原稿を書きおろし掲載を許可してくれたメジアン氏に深く感謝申し上げたい。モハメド・アメル・メジアン(Mohamed Amer Meziane)氏は、フランスのパンテオン・ソルボンヌ大学で哲学/思想史の分野で博士号を取得したのち、アメリカのコロンビア大学でのポスドク研究員を経て、現在はブラウン大学の助教を務めている〉

世俗新世はあるのか?」という短い断片の理論的提起にどのようにしていたったのか、その経緯を日本の読者に提示しないかとの誘いをいただいた。この導入的テクストにおいて、その誘いに応えたい。テクストが提示するのは、わたしの2冊の著書——『地上の諸国家/状態ステイツ』と『世界の縁で』[1] ——の執筆過程、およびその主たる論点である。

複数の旅程

生態学エコロジー」という広範で雑多な分野にわたしが興味を抱いたのは、まず19世紀を研究する思想史家としてであった。当初、わたしの関心の所在は、植民地に関する事柄と神学・政治学的事柄の交錯点にある諸事象にあった。つまり、表面上では、もともとのわたしの課題は生態学的エコロジカルなものではなかった。宗主国と植民地とのあいだの不均等な相互作用・・・・・・・・が、われわれが「近代」と呼ぶものへと帰着する世俗化の力学をいかにして生みだしたのか、わたしが抱えていたのはこの問いであった。はじめは気候変動の起源という問題は不在だったのだ。ところが、マルクス主義やポスト・マルクス主義の理論家たちといくどか議論を重ねたのち、それは前景化するにいたった。彼らと重ねた議論のなかでも、とりわけ次の問いを強調しておきたい——世俗化の諸帝国と資本主義経済のあいだには、いかなる関係があるのか? 

実をいえばこの問いは、わたしが書こうとしていた帝国主義的近代と世俗化の歴史に関して、観念論におちいる危険をはらんでいた。その歴史は、たんなる諸観念の歴史になりかねなかったのだ。この問いへの答えを見出すにあたりわたしが詳しく検討したのは、下部構造ではなく、わたしが研究対象とする1798年から1860年のあいだ、さらにいえば、とりわけ1820年から1830年——ベルリンでヘーゲルが講義をおこない、アルジェリアの征服とともに終わった10年間——のあいだに資本主義がこうむった変容であった。ゆえに問いは、資本主義の力学にまつわるものとなった——資本主義が化石・・経済へと変容するにあたり、諸帝国の世俗化はどのような役割を担ったのか? この2つ目の問いに誘われてわたしは、植民地的あるいは「人種的」であるばかりか、生態学的エコロジカルでもある帝国主義的世俗化の歴史を書くにいたったのだ。というのも、上記のごとく提起された問いは、世俗化と気候変動の連関を化石帝国と化石資本主義の分析を媒介にして・・・・・解釈することへと、わたしを導いてくれたのだ。「近代」とは実のところ人新世であり、また近代が世俗化の結果にすぎないのだとしたら、いまひとつの問いが提起されねばならなかった——世俗化はいかにして人新世を生み出したのか、と。

本稿においてわたしは、この問いへといたった経緯、ひとつの書物の執筆を導いた地中の動き、そしてこの動きの過程で傾聴され、変容させられ、論議されたさまざまな声について、説明を試みたい。書物とは畢竟、思考の運動をひとつの客体へと安定化させたものに他ならない。ありえたかもしれない無数の道や声は、得てしておおかた恣意的な所与の時機において、ひとつの本へ編まれることを強いられる。こうした無数の声のなかには、直接の対話相手となったかそうでないかにせよ、特定の著述家たちの声がある。そうした声は、研究プロジェクトの行程を変えたいくつかの経験と邂逅を通じて聴こえてきたものだ。真に探究がはじまるのは、当初の道すじから逸れたときなのだろう。道すじの起点を確として断定できないのは、そのためである。

研究プロジェクトの歴史

まずわたしの目に留まったのは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』[2] であった。 当時、フランスではポストコロニアル研究はほとんど紹介されておらず、フランスの哲学界はこうした問題にまったく関心を示していなかった。このテクストはたえずわたしについて回ることになる。フランスにおける近年の世俗主義の変容の歴史はオリエンタリズムへの批判的視座のもとに刻印されねばならないこと、こうした変容はまずもってヨーロッパにおけるオリエンタリズムの余波に属していること、これに疑いの余地はなかった。いまだになかなか認知されてはいないのだが、本質的な論点はそこにあった。すなわち、アラブ/イスラム世界、さらには「他者」一般にまつわる言説が生まれるにあたり、植民地主義が中心にあるということだ。

だが、サイードの描いた絵には欠けているものがあった。「神学-政治」問題、それからヘーゲルのような哲学者の重要性である。もっとも、ヘーゲルは典型的なオリエンタリズムを示していた。 彼はオリエントをただ「神政政治」として概念化した。そこでは人間は、自然や神々、ないしは自然の鎖を暴力的に破壊しようとしながらもそうできないでいる唯一神の重みに押しつぶされ、横たわっているとされる。ヘーゲルによれば、神政政治は中国から北アフリカにいたる「東方イースト」にあまねく見い出される。この種のオリエンタリズムによってヘーゲルは、「西洋ウエスト」をキリスト教のゆるやかな世俗化から生まれた自由の地として定義することができた。そこでは世俗化は、普遍主義のはじまりの契機、そして人権を革新的に予期するものとして再解釈されている。人文諸科学そのもの、そして17世紀以後に神学の瓦礫のうえに築かれた西洋哲学、これらが生み出されるにあたりオリエンタリズムが中心にあったこと、わたしの研究はこれを精査することを目的にした。19世紀の哲学史を、19世紀史のより広範な空間において捉えなおして分析したわたしの論文は、この方面での成果である。

ところが、わたしが描いたこの19世紀史というのが、著しく物質性を欠いたものだった。そこでわたしは、言うなれば、気候問題へと宗旨替えしたのだ。このプロセスがはじまったのは2017年の春、パンテオン・ソルボンヌ大学に論文を提出したときである。審査員のひとりで、数年間いつも対話相手となってくれていたエティエンヌ・バリバールは、彼をいまひとつ確信させずにいるというフーコーの『臨床医学の誕生』になぞらえつつ締めくくりにこう述べた——議論からは資本主義が不在である、と。世俗主義は植民地主義の遺産からわれわれを解き放つことはできないことを示そうと苦心した末に、史的唯物論との関係において抱えていた限界にわたしはまたしても突き当たった。資本主義について問いを呈さなかったのは、一部には、レーニンやルクセンブルクの帝国主義論を蒸し返したり、型どおりの反植民地的ファノン主義を採用したりしたくなかったからである。だが、そのときわたしが直面していたのは、それとは別の隘路であった——カルチュラル・スタディーズやサイードの『オリエンタリズム』を含むポストコロニアル理論が自前の政治経済学を生み出せないでいる、その構造的無能を自分もただ反復しているのではないか、と。

わたしが答えを見出したのはずっと後のこと、資本主義による化石燃料の使用が、わたしが数年ものあいだ吟味していた1820年から1830年という時期にさかのぼることに気づいたときである。 化石資本主義に関する文献を通じてマルクスの『資本論』を読み直したことで、確信が得られた。わたしが探しもとめたのは、ポストコロニアル研究の先端とマルクス主義の先端を統合する方法であった。一方には帝国のオリエンタリズムの「政治神学」への批判があり、もう一方には資本主義への批判がある。この2つを統合しようとしていたわけだ。

化石資本のアーカイヴ

マルクス主義による気候危機の説明を読むことで、わたしの研究はその平穏な道すじから外れていった。わたしはマルクスの『資本論』をエコクリティカルな視座から読むことへの興味を認めるのと同時に、近年のエコ・マルクス主義への不満を白状しなくてはならなくなった。蒸気機関、産業機械、剰余価値についてマルクスが書いた文章から導き出される議論は、シンプルで説得力がある。すなわち、資本家が石炭を燃料として用いるにあたり、内的必然性や直線的な技術発展があったわけではないというものだ。人口と労働力を管理する技術、石炭輸送のスピード、生産力としての水力が生産そのものに課す限界、労働時間を制限する法律への対応と、それによる生産スピードの激化を要する相対的剰余価値への移行といった、一連の偶然が作用していたのだ。これこそマルクスが描いた19世紀イギリスの姿である。[3] インドでは同様のプロセスが、自然資源の探索、現地人労働の過剰搾取、そして蒸気機関の軍事的・・・使用としてあらわれていた。『地上の諸国家/状態ステイツ』第4章で示したように、マルクスが見落としていたのは、綿工業における蒸気機械の使用に先立って蒸気船の使用があったということである。蒸気機関は、イギリスの資本主義そのものよりも前に、まず英緬戦争(the Anglo-Burmese War, 1824-26)において大英帝国によって海外で用いられた。それは後の使用を予示するものだった。フランスは「スフィンクス号」と呼ばれる蒸気船を用いて1830年にアルジェを征服し、現在パリのコンコルド広場中央に据えられているルクソール神殿のオベリスクをエジプトから盗んだ。ネメシス号は1840年に中国に来航し、イギリス人がアヘン戦争で用いることになる。別の名前を持った蒸気船は他にも数多くある。

ゆえにわたしのマルクス読解は、熱意と懐疑が入り混じる両面的なものとなった。懐疑は、マルクスを早すぎたエコロジストとみなすべきだとする短絡的な議論におちいることをわたしに戒めてくれた。[4] だがそれは、尋常ならざる熱意を帯びた読解でもあった。というのも、マルクスの文章を読み進めるうちに、数年におよぶわたしの研究は新たな様相を帯び、さながら眼前で19世紀が再構築されていったからだ。さらに、近代、諸帝国、そして19世紀におけるその世俗化について自分が承知済みだと思っていたことはみな、気候危機の表層的な影響ではなく、まさしく資本主義が化石資本主義へと化していった条件の一部とみなせることに、わたしはにわかに気がついた。マルクスの世紀を歴史化することで、すでにわたしは彼の亡霊とも会話し、批判的な対話を繰り広げていたのだ。

わたしが何年もかけて研究してきた文化的、宗教的、植民地的な事象を、化石資本主義と資源採掘の実践という巨大な現象と結びつけて理解することは、どのようにして可能になるだろうか? このつながりはいまや必然に思えたし、ひとたび垣間見てしまえば、しきりにこのつながりに立ちもどらざるを得ず、洞察を脇に追いやったり忘れたふりをしたりしてもとの知的状態に戻ることはできなくなった。こうしてわたしは、環境的視点を通じて世俗化の帝国主義的力学を読みなおす歩みをはじめた。かくしてわたしの最初の著書『地上の諸国家/状態ステイツ』が生まれたのだ。

世俗化の地中の歴史にむけて

つまるところわたしが発見しつつあったのは、19世紀に地球の表面上で起こっていたことの地中の歴史に他ならなかった。わたしが相互のつながりを見出してきた帝国に関する諸事象——エジプト遠征とオリエンタリズムの制度化、ナポレオン式の帝国主義の拡大とアルジェリアの植民地化——を見なおすたびに、同一事象の別の相貌が、背後にたたずむ幽霊のごとく浮かび上がった。これら事象の別の様相であるこの分身は、異なる歴史への呼び声を発していた。その分身はまた、われわれが「地球」と呼ぶ、いまなお生起をつづける森羅万象の広大なネットワークに、こうした事象が刻印される様の歴史になりうるものでもあった。 天国の統治と地上の統治を理解し、いかにして天国がその名と相貌を変化させたのか、そして19世紀において天国、救済、そして改宗との異なる関係がいかにして打ち立てられたのかを把握するには、地中に潜らねばならなかった。地上の諸帝国は地中の諸帝国でもあった。わたしの見方では、問われるべきはいまや、諸帝国が地上やそこに住まう人々と生物、すなわち人間と非-人間ノンヒューマンをどのように搾取していたかにとどまらず、どのように下層土を搾取していたかでもあった。19世紀ヨーロッパと「天国」との関係を分析すること抜きにしては地上に起こったことは一切理解しえないこと、このことは心得ていた。しかし、それはまた別の問いにもなったのだ——天国が地上へと・・・・転移し、そこでついに消失したとき、地中では・・・・何が起こっていたのか、と。

この問いはわたしをマルクス主義に鞍替えさせはしなかった。正反対である。化石資本主義について書かれた文献のほとんどに対しわたしが抱いた深い失望は、エコロジカルなレーニン/マルクス主義の特定の潮流に対して感じた、より一般的な失望を彷彿とさせた。イデオロギー・・・・・・を真に唯物論的な仕方で、すなわち「アクター」として思考することができないでいる、その無能にわたしは失望していたのだ。この無能の直接の要因は、西洋が「宗教」と呼んでいる擬似的な対象についての、ある種のマルクス主義者たちの考え方にある。なぜだろうか? それはまさしく、「宗教」一般なるものは存在せず、いわゆる人類学上の事実を信じることは、根拠を持たない普遍概念を信じるのに等しいからだ。「宗教的なもの」はそれ自体では何も意味しない。それが指すのは、歴史を通じて変異してきた複合的で多様な諸事象である。「人間世界」——つまり、社会的・政治的生活——における変遷によって変わるのは、所定の時間と空間において人間が信じている、その内容・・だけではない。われわれが「宗教」と呼びうると思っているもの、まさにその本質も変化するのだ。

他のところで論じたことだが、マルクスはこの仮説を予見しながらも、宗教一般を「大衆のアヘン」と呼んだとき、また後にイデオロギーや商品の物神崇拝といった概念を用いたとき、仮説を覆いかくしてしまった。[5] おそらくマルクス主義は、ただ教条的にこの行きづまりを容認していた。そこから生じたのは、経済こそがイデオロギーの要因である——またそれゆえに、歴史上のあらゆる時点において、宗教をもたらしたのは世俗的な要因である——とする一面的な主張である。マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』においてこの非歴史的な歴史哲学を詳述している。つまるところ必要なのは、マルクスをもとの道へと再起させることなのだ。それはすなわち、宗教批判を批判すること、「宗教への回帰」ではなく、地上への批判、国家と資本への批判を変異させることを意味する。

これは流行りのエコ・マルクス主義者たちの誰もが問うことのない問題である。さらに言わねばならないのは、ここで問題となるのが、たんなるマルクス主義への失望にとどまらないということだ。エコロジストたちが植民地主義やエコ・フェミニズムについて語るときにさえ、「宗教」と呼ばれるものを思考する——というか、むしろ思考していない——仕方をわたしは問いただそうとした。エコ・マルクス主義にふれた経験によりわたしは理論的見地を根本から再構成したのだが、その裏でわたしは、それとはまったく異なる感覚を抱いていた。わたしがただちに感じていたのは、19世紀初頭のイギリスで化石経済を生じせしめた諸プロセスのイデオロギー的次元——それは神学とオリエンタリズムの狭間のどこかに位置している——を、彼らが真剣に考慮できないでいることへの失望だったのだ。

世俗主義か自然主義か?

結論に代えて、問いを提起したい。エコロジーの理論に対してこの視座は、どんな方法論上の志向を開いてくれるのだろうか?  植民地的帝国主義のエコロジーにまつわる理論的研究、そしてわたしの読解の経験は、エコロジーにまつわる問いの問題化の仕方を変え、現行の議論のあり方を変えるのに、どのように役立つのだろうか?

これらの問いを探求したのが、わたしの2冊目の著書『世界の縁で』である。非-人間ノンヒューマンに関する理論家のほとんどは、自然と文化の区分への批判に注力してきた。錚々たる論者がこの分野を占めている。フランス語圏では、イザベル・スタンジェールやヴァンシアーヌ・デプレといった論者の他に、フィリップ・デスコラやブリュノ・ラトゥールらがいる。『世界の縁で』は実際に、芸術界や人文学における議論のあり方を変える一助となった。人文学においては、本書はコレージュ・ド・フランスでのデスコラとの公の論争につながった。芸術界では、パリのボブールのジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センターで催された、アーティストのアブデルカデル・ベンチャマによる展示において、本書のタイトルがその展示のタイトルとなった。

『自然と文化を越えて』においてデスコラは、近代人の存在論を、彼が自然主義と呼ぶものと同定している。自然主義を構成するのは自然の発明であり、それはデカルト以来、自然の対象化を引き起こし、文化の領野と自然界、つまり人間と非-人間ノンヒューマンとの分離をもたらした。デスコラによれば、科学革命を用意したのはキリスト教であった。キリスト教が世界を超越する存在として神を措定することで、西洋思想は独自の法則が支配する領域として自然を捉えられるようになった。それ以後論者たちは、自然の発明が超自然の発明に依拠していることを論じてきた。近代人による自然の発明は、帝国主義的な西洋神学にその起源を持っているという。

こうした仮説はいずれも世俗化の理論を前提としている。事実、自然が対象化され自律的な領野とみなされるには、神はそこから不在でなければならない。つまり、いってみれば、自然は「脱魔術化」されねばならない。それでは、キリスト教から自然主義への移行はいかにして成しとげられたのだろうか? キリスト教はその内的な・・・運動によって自然主義を生み出したのだろうか? この問いに対するわれわれの回答は「否」である。そしてこの点においてこそ、リン・ホワイトや「存在論的転回」の論者たちとわれわれは意見を分かつ。ここで問題になるのは、西洋のキリスト教の帝国的次元である。植民地化なくしてキリスト教は変容しなかったであろう。植民地化とはたんなる拡張ではない。つまりヨーロッパですでに築かれたものがヨーロッパ外に延長されることではない。植民地的出会いによって確実さはくつがえり、被植民者が変容させられるのと同じくらい、植民者もまた変容させられる。そうして生じる力学空間は「世界の脱魔術化」の中心に据えられねばならないのだが、そのおもな理論家たちはこれを等閑視してきた。

ラトゥール、デスコラ、そして彼らの弟子たちが示した進展は、まるで自明であるかのように機能しつづける区分の普遍性に疑問を投げかけているという点において、反論の余地がない。しかしながら、「存在論的転回」の人類学者たちのほとんどは、キリスト教から近代の自然主義への移行の問題を未解決のままにしていると、わたしは主張したい。わたしの仮説では、自然の脱魔術化と植民地化の関係という問題はエコロジーの理論が前提としていたのだが、この理論もまた、いまだに満足のいく形で問題を提起するにいたってはいない。よってわれわれは、いくつかの問いに向き合わねばならない——近代の誕生は、自然と文化のあいだの大いなる分断の発明と、それを特徴づける自然主義に還元されうるのだろうか? 自然主義の発生に際して植民地主義はどのような役割を担ったのだろうか?

デスコラは、歴史的分析に対して構造的分析をはっきり優先させている。だから、自然主義はまず4つの存在論を抽象的に描写し比較することで定義され、その後に短く歴史が提示される。自然主義の誕生は、アリストテレス、キリスト教、近代科学という3つの段階を経るという。[6] この分析にはひとつの重要な段階が奇妙にも不在である。それは植民地的宣教であり、より具体的にいえば、1492年以来の南北アメリカの征服である。南北アメリカにおけるキリスト教的・植民地的拡大は、中世のキリスト教圏(Christendom)——理論家たちはしばしばこれをキリスト教(Christianity)と混同している——から自然主義が生まれるにあたって重要な役目を負わされていないように思えるのだ。これはラトゥールによる近代人の人類学についてもあてはまる。[7]

だが、自然主義の系譜を、植民地におけるキリスト教の歴史人類学や、キリスト教から近代へとつながる世俗化の過程から切り離すことは可能なのだろうか? 答えは明らかに「否」である。キリスト教は近代人の自然主義の祖として言及されており、神の超越が自律的な法則やメカニズムによる自然の対象化を可能にしたとする仮説に還元されている。この歴史において、キリスト教の宣教と植民地化の歴史が果たした役割は周縁化されているように思われる。そして、ラトゥールとデスコラの関心は、ローマ・キリスト教の制度の物質性よりも、存在論的分断、あるいは対象化の構造上の様式にまつわる観念論的な歴史のほうにあるようだ。彼らにとって近代人を特徴づけるのは、権力や暴力のタイプではなく、「自然主義」と呼ばれる、または自然/文化の分断を特徴とする、ひとつの存在論なのだ。

論争をふっかけるつもりでこのような読みをしているわけではない。この読解は、新たな領域の探究と、自然主義の人類学とその他者という枠組みのなかでは問われえぬ問いの提起へと、われわれを導いてくれるはずだ。ヨーロッパ人、すなわち近代人になる途上にあるキリスト教徒たちと、アメリカの「アニミズムを信じる共同体」との植民地的出会いは、自然主義の発生にどのように関与したのだろうか? 植民地主義は自然主義とどこで適合するのだろうか? 植民地主義はキリスト教をどのように変容させ、近代を生み出したのだろうか? 「存在論的転回」の論者のほとんどが答えずにいるこうした問いこそ、われわれが探究しようとするものだ。こうした問いに答えるには、世俗化の新たな概念・・・・・・・・・を構築し、近代の出現に通ずる軌跡を理解するための新たな方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・を案出しなくてはならない。ひとことでいえば、それは新たな近代人の人類学を描き出すことである。

世俗化の生態学的・人種的な歴史を提示するにあたり、これらの問いに答えるための最初の一歩をわたしは示そうとした。そのねらいは、近代の出現を動態的に・・・・読み解くことにある。キリスト教圏は帝国主義を世界中に拡大したのだが、その見返りとして、異なる世界の発見により西洋のスコラ哲学はその確実さにはじめて揺さぶりをかけられた。[8] だが、これではまだ世俗化にはいたらない。その力学は、19世紀に蒸気力が流通と生産を加速させるにつれて勢いを増していった。「植民地」と「宗主国」の帝国的・・・相互作用は、「近代」あるいは世俗化の歴史の中核を成している。[9] したがって必要なのは、キリスト教の植民地主義から「自然主義」にいたる過程、そして宣教的・農耕的な重商主義から自由主義的な化石産業主義へといたる過程において、植民地的帝国主義が果たした役割を見きわめることのできる視座である。これは歴史・・人類学の視座となる。この視座のねらいは、自然、文化、さらには宗教といった西洋のカテゴリーを異なる世界へ投影すること・・・・・・へのたんなる批判から、われわれを解き放つことだ。なぜなら問われるべきは、土着の宇宙観との「出会い」がいかに西洋のキリスト教徒に神学を変容させるよう迫ったのか、そして中世のスコラ哲学の瓦礫のうえに近代人の「自然主義」が生まれるにあたりこの緩慢な変容がどのような役目を果たしたかでもあるからだ。

世俗化の生態学的・人種的な歴史とともにすでにはじまっていたことの継続であるこの歴史は、いまだ書かれてはいない。自然と文化の分断への批判を・・・・・・・・・・・・・宗教と世俗・・・・・自然科学と形而上学といった二分法・・・・・・・・・・・・・・・・すなわち西洋近代人の認識論的「構築物」の分析によって補完すること・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・により、はじめてこの歴史を書くことができるだろう。後者の分断は、それが構築的だからといって、誤りだとか有害だとかいうことにはならない。知の発展における進歩の多くは、この分断から生じている。だが、社会科学が帯びる役割は大きく異なる。社会科学は価値判断を抜きにして近代社会やエコロジーの危機を描写する。世俗化を啓蒙されたヨーロッパから闇に陥った人類への贈与として崇めることには慎重であらねばならないが、それをたんに不信心だとして唾棄するのもまた無意味であろう。

翻訳:橋本智弘

サムネイル画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sunrise_Dam_Gold_Mine_open_pit_12.jpg


[1] わたしの最初の著書のタイトルは、Mohamed Amer Meziane, Des empires sous la terre, Paris, La Découverte, 2021. である。同書は2023年にアルベルティーヌ賞のノンフィクション部門を受賞した。英訳はThe States of the Earth, An Ecological and Racial History of Secularization, London, Verso, 2024.として刊行された。わたしの2冊目の著書は、 Au bord des mondes. Vers une anthropologie métaphysique (Bruxelles, Vues de l’esprit, 2023).であり、At the Edge of the Worldsというタイトルで英訳が進んでいる。

[2] Edward Said, Orientalism, New York: Pantheon Books, 1978.

[3] Karl Marx, Capital Volume I, New York: Penguin Books, 1982, Chapter 15.

[4] アンドレアス・マルムのおもな主張は、厳密に言ってマルクスの『資本論』を選択的に読解したものにすぎない。Andreas Malm, Fossil Capital, London, Verso Books, 2017. を参照のこと。同書は、現代においてマルクス主義を実現しようとするためのマルクスとレーニンへの注釈的解説として有用ではあるものの、化石資本主義に関するマルクスの説明へ新たな見方をもたらすものではない。同様のことは、斎藤幸平やジョン・ベラミー・フォスターについてもいえる。「物質代謝の亀裂」についての初期の言及としては、マルクス『資本論』第一巻の次の箇所を参照のこと。「労働過程は、使用価値産出のための目的に沿った行為である。それは人間の欲求充足のための自然的なものの摂取、人間と自然の新陳代謝の一般的条件、人間の生を規定する永遠の自然条件である。したがってそれは人間の生のいかなる形態にも依存せず、すべての社会形態に等しく共通なものである」(カール・マルクス『資本論 第一巻 上』今村仁司・三島憲一・鈴木直 訳、筑摩書房、2005年、272頁。)

[5] Mohamed Amer Meziane, “How the Critique of Heaven Confined the Critique of Earth”, Qui Parle?, 2020.

[6] Philippe Descola, Par-delà nature et culture, Paris, Gallimard, 2005, p. 128-165.

[7] Bruno Latour, We Have Never Been Moderns, Cambridge, Harvard University Press, 1993.

[8] ヨーロッパに関する人類学の文献がもたらした効果がここで非常に重要である。ド=セルトーはこれを、エスノグラフィーを学問分野として成立させた一団を構成したものとして詳しく分析している。Michel De Certeau, L’Écriture de l’histoire, Paris, Gallimard, 1975.を参照。

[9] M. Amer Meziane, Des empires sous la terre, op.cit. p. 322-334.



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