不定期連載「畑の日記」― 1)援農のススメ!

ひろもとななこ

はじめに ―― “Ecrire, c’est hurler sans bruit”

「書くこと、それは声をたてずに叫ぶこと」、どの本からの引用かすら書いていない7、8年前の読書記録で再び出会った、マルグリット・デュラスの言葉だ。あまりにも早いスピードで変わりゆく社会を目の当たりにして、焦りを感じながら、ただ立ち尽くすしかない私にとって、この言葉は私の心の片割れのように思えた。

気候変動は、目に見えて私たちの地球環境をますます住むに適さないものへと変えている。私の住む山形でも、「まだ六月なのに、山頂の雪があんなに溶けている」とか、「みんな里に降りてしまって、山の中にいても熊の気配がしない」とか、さまざまな身の回りの環境の変化を聞くことは稀ではない。そのような着実な変化だけでなく、日本国内でも大きな自然災害が続いている。昨日、今日、明日と別々の場所で新たな災害が起こり、一つ前の大災害も忘れてしまいそうになり、ただ心がざわざわとする。作家・佐多稲子は、戦争へと突き進む日本を目の当たりにして、「すべての人が泣いている」と言った。先日の千葉県での豪雨災害のニュースを見ながら、私は、あらゆるものが泣いている、そんなことを思った。

もちろん、こうした変化は世界中で起こっている。それでも私たちは石油エネルギーや水、あらゆる資源を、まるで無限にあるかのように酷使し続けている。膨大なエネルギーを使いながら占領や戦争は絶え間なく続き、いのちの重さはどんどん軽くなる。たった一週間過ぎれば新たな大規模災害が起こり、社会・政治状況が大きく変わってしまうようなスピードの世界で、ものを書いて残すということに意味があるのだろうか。けれど、軽くなってしまったいのちにふさわしい重さを取り戻すために、私ができることの一つが、思考の跡を記録し、「叫び」、誰かと共有することかもしれない。そんなわけで、ゆっくりとでも着実に文章を書いていこうと思う。

いろんな生き物がいる

7月18日、じゃがいもの収穫をした。5月に土寄せ[i]をした畑のじゃがいも。ちゃんと育ったなんて、大袈裟かもしれないけれど、まるで我が子のように愛おしくなった。周りの土を少しはたいて、引っこ抜く!…と、根っこはぷちぷちと切れて、肝心のいもは引っこ抜いた茎に全然ついてこない。初心者だから下手なんだろうか?コツはありますか、と農家さんに聞くと「いも的にそっちの方がいいんだと思います」との答え。いも的?!たとえば、空からやってきた鳥がじゃがいもを食べようと上からつついても、茎のあたりでプッツリ切れてしまうので、いも本体はちゃんと地中に残れるという生存戦略らしい。すごすぎる。収穫する人間として、「いも的」という主体性を全く考えていなかった私には目から鱗だった。先だって読んだ、藤原辰史先生の『植物考』でも、植物にも「思考」はある、とさんざん書いてあったのに!

トウモロコシの葉っぱに乗っている小さいニホンアマガエル

農薬を使わない有機農法は、あらゆる生物にとってのパラダイスになるらしい。その中には畑にとってプラスになる生き物も、そうではない生き物もいる。ネズミは繁殖力も強く、食物を食べ散らかしてしまう(じゃがいもが大好物!)ため、畑にとっては大の天敵。頭の良いカラスは、作物を網で囲っても、どこからか抜け道を見つけてトウモロコシなどを食べ尽くしてしまう。トウモロコシなんかは、9割近くは虫やカラスに食べられてしまって、販売できる形の整ったものはその残り1割なんだとか。私の元に届いた野菜たちは、様々な困難を乗り越えたサバイバーなのだ。

また、「人間的」には嬉しい出会いもある。水が綺麗で、緩やかな流れの場所にしか生息しないイトトンボが畑の上空をひらひらと舞ったり、小さいニホンアマガエルがいたるところでぴょこんと顔を出したりしている(かわいい!)。ニホンアマガエルは、蛾がトウモロコシの葉っぱに産み落とした卵を食べてくれるらしい。ほかにも、真っ赤なイモムシや、ヤゴなど、この畑ではいろんな生命に遭遇できる。畑作業をしている間も、さわさわさわっと葉っぱが揺れ、いろいろな生命の蠢きがそこかしこで感じられる。お互いの存在を感じ合いながら、土を踏み、恵みをいただく。私は大きな循環の小さな一要素に過ぎないのだ。

援農のススメ

土をはたいて、地中からじゃがいもが顔を出したとき、まさに「実り」だと感じる。視界に、イマジナリーテロップ「実り!」と効果音付きで出てくるくらいだ。虫たちとの攻防や、天候、雑草の脅威など、畑からのいろんなSOSに応えてきてようやく受け取る実りは、びっくりするほど美味しい。月に一度ほどお手伝いをするだけの私にもその実りは平等に与えられる。植物学者であり環境活動家、作家のロビン・ウォール・キマラーの言葉を借りれば、これもまさに「贈り物」である。

はじめに、いのちの「重さを取り戻す」と書いたが、私はこうして時折畑に出向いたりすることで、それを実践しているのではないかと思い始めた。私の通う畑には大小様々ないのちがいて、それを直に感じることができる。そして、実りを得るためには、そこにいる多様ないのちの声を無視していてはだめなのだ。たとえそれが、人間にとって「害虫」であっても、しっかりとコミュニケーションを取る必要がある(彼らにとっては、人間が害獣かもしれない…)。山形に越してきて一年と数ヶ月が経つが、その間、あまりにも豊かな味の作物をたくさん食べてきた。これまで食べてきた野菜とは比べ物にならないくらい噛みごたえがあり、一つ一つの野菜がしっかり「味」を持っている野菜。それは、害だとみなしたものを不必要に殺害・排除する方法では、生まれない。そうしたやり方では単一的でつまらない味にしかならないうえに、元々の土地の環境すらも変えてしまう可能性がある。難しくて、時間がかかっても、言葉が通じない相手でも、そのいのちを対等の位置に置き、声を聞くことで育った豊かな作物なのだ。それは、畑の中だけではなく、人間同士においても言えることで、立場や思想、バッググラウンドの異なる他者をただ排除するだけでは社会は閉鎖的で、つまらない。他者の目を見て話を聞く努力は、豊かな社会を作り上げることに繋がると私は思うのだが、人々はそんなことを想像する余裕がなくなるほど生きるスピードが速くなっているのだろうか。

もしかすると、そんな私たちにとって、食と、畑と向き合うことは、他者や、多数の他者が生きる社会と向き合うためのとっても大切な練習になりうるのではないか?

ということで、あなたもぜひ畑に(田んぼに、森の中に・・・)出かけてほしい。というか、農業は割と楽しい。低い位置に生えているインゲンを収穫するために膝をついたときの土のふかふかを感じずに生きるなんてもったいない!ちなみに、採れたてのインゲンはさくっと炒めるだけで絶品です。

美味しかったある夏の日の朝ごはん 
野菜セットの枝豆で作ったポタージュ
山形産の桃
自分で詰んだブルーベリーで作ったジャムを塗ったトースト

[i] 土寄せとは、畝と畝の間の土をほぐして軽く株元に寄せることで、株(作物)が倒れないようにしたり、養水分の吸収を高めたりすること。



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