ヴィジャイ・プラシャド「NATOが2011年にリビアを破壊し、暴風雨ダニエルがその仕上げをした」


トリコンチネンタル社会研究所

ニュースレター 2023年9月21日

ワーディー・ダルナ(デルナ)川の 「アブー・マンスール」ダムと「アル=ビラード」ダムが崩壊する三日前、9月10日の夜に、詩人のムスタファー・タラーブルスィー(Mustafa al-Trabelsi)は「ダルナ文化の家」での討論会に参加した。それは自分たちの街の基盤インフラが放置されていることについてのものであり、その会合でタラーブルスィーはダムの劣悪な状況について警告を発していた。同じ日に彼がFacebookに書いているように、過去10年以上にわたって彼の愛する街は「鞭と爆弾にさらされてきた。つぎにドアのない壁によって包囲された。そして恐怖と絶望に押しつつまれるがままになった」。それから、暴風雨ダニエルが地中海の港から再上陸し、身をひきずってリビアを横断して、ふたつのダムを決壊させた。市内のマガール地区の監視カメラの映像は、洪水が高速で押し寄せた様子を映している。建物を破壊し、生命を押しつぶすのに足るほど力強い洪水だ。報道によれば、洪水被害にあった地域のインフラの70%、教育施設の95%が損害を受けた。9月20日水曜日の時点で、4000人から11000人の人々——そのなかには、何年にもわたる警告を顧みられることのなかった詩人ムスタファー・タラーブルスィーも含まれる——が洪水で亡くなったと試算されており、さらに10000人の人々が行方不明とされている。

リビアの国民安定政府(スルトに拠点をおく)の航空大臣であるヒシャーム・シャキーウワートは洪水の発生にさいしてダルナを訪れ、BBCにこう語った。「私はそれを目にして衝撃を受けました。まるで津波のようでした。莫大な区域が破壊されています。犠牲者は多数にのぼり、その数は毎時間ごとに増え続けています」。ヘレニズム期(紀元前326年から紀元前30年 )にルーツをもつこの古代都市は地中海の餌食となってしまったのだ。ダルナの道路橋梁局の局長フサイン・スワイダーンが述べたところでは、地域全体が「深刻なダメージ」を受けており、それは300万平方メートルにも及ぶ。「この街の状況を表すには、破滅的という言葉ですら足りません」と彼は語った。世界保健機関(WHO)のマーガレット・ハリス医師はこの洪水が「叙事詩的な規模」だと語った。「生きて覚えているかぎり、この地域でこれほどの暴風雨ははじめてです」と彼女は言う。「すさまじいショックです」。

リビア中に広がった苦悶のうめきは、荒廃を前にした怒りへと姿を変え、いまではそこから調査への要求が展開しつつある。だが、誰がその調査を実行することになるのだろう——アブドゥルハミード・ドベイバ大統領を首班とし、国連(UN)によって公式に認可されたトリポリの国民統一政府だろうか? それともスルトのウサーマ・ハンマード大統領を首班とした国民安定政府だろうか? この国の政治を麻痺させてきたのは、これら二つの敵対する政府——もう何年も互いに戦争状態にある——だが、そもそもリビアの国家機関が致命的な損害を受けたのは、北大西洋条約機構(NATO)による2011年の爆撃のためだ。

石油は豊富だがいまや完全に荒廃している国に住む700万人ちかいリビア人人口を扶養することは、引き裂かれた国家と損害を負った諸機関には不可能だった。直近の悲劇がおこる前から、すでに国連は最低でも30万人のリビア人に対して人道支援を提供していた。だが洪水の結果、さらに最低でも88万4千人分の援助が必要になるであろうと国連は試算している。この数字は間違いなく上昇し、すくなくとも180万人に達するだろう。WHOのハリス医師の報告によれば、いくつかの病院は「一掃」されており、救命医療物資——重症処置用具(トラウマ・キット)遺体用担架(ボディ・バッグ)までも——が必要とされているとのことだ。「人道支援のニーズは膨大なもので、リビア赤十字の能力をはるかに超えています。さらには政府の能力すらも」と、国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)のリビア使節団長であるターマル・ラマダーンは語った

国家の限界が強調されていることを過少評価してはならない。同様に、世界気象機関の事務総長であるペッテリ・ターラスは、前代未聞の降雨量(一つの観測所の記録では、24時間で414.1 mm)にもかかわらず、この破局の原因を作ったのは国家機関の崩壊であると指摘している。ターラスのコメントによれば、リビアの国立気象センターの「観測システムには、大幅な空隙が存在」している。「そのITシステムはうまく作動しておらず、人員不足も慢性化しています。国立気象センターはなんとか機能しようと努力していますが、そのための能力は限定的です。災害に対する管理と統治の鎖全体が切れ切れになっているのです」。さらに彼はこう語る。「この国の災害管理と災害への対応メカニズムがばらばらになっていること、そして劣化しつつあるインフラのために、この苦境は輪をかけて途方もないものになっています。政治的な状況こそがリスクの発生要因なのです」。

リビア代表議会(リビア東部政府の議会)のメンバーであるアブドゥルムニーム・アルフィーは、同僚の議員らとともに災害の原因究明調査への呼びかけに加わった。その声明のなかで、アルフィーは2011年以後のリビアの政治階級が抱える問題が背景にあると指摘する。 NATOによる戦争の前年である2010年、リビア政府はワーディー・ダルナ川の二つのダム(どちらも1973年から1977年のあいだに建造されていた)の修復のために予算を割り当てていた。このプロジェクトはトルコの企業による実施が想定されていたが、その企業は戦争のさなかにリビアを去った。プロジェクトが完遂されることは決してなく、そのために割り当てられた資金も消失した。アルフィーによれば、もはや通常の降雨にさえも対処できないとして、2020年に技術者たちがダムの修復を提言した。しかしそれらの提言は棚上げにされた。資金は消失しつづけ、仕事が実行に移されることはついぞなかった。

ムアンマル・カッザーフィー (1942–2011)を指導者とした政権の転覆以来、責任免除(インピューニティ)という言葉がリビアを定義するものとなった。2011年の2月から3月にかけて、湾岸アラブ諸国で発行される新聞はリビア政府軍がリビアの人民に対してジェノサイドを行っていると主張しはじめた。国連安全保障理事会は二つの決議を通過させた。暴力を弾劾しこの国に対する武器禁輸(アルムス・エンバルゴ)を成立させる決議1970号(2011年2月)、そして加盟国が「国連憲章の第VII章に従って」行動すること——そうすれば武装した軍隊が停戦を成り立たせ、危機の解決策が見出されるだろう——を認める決議1973号(2011年3月)。アフリカ連合の使節団は、これらの決議に従ってリビア国内のあらゆる党派と和平会談を行おうとしたが、フランスとアメリカ合衆国が主導するNATOによって妨害された。西洋諸国はまた、2011年3月にアディスアベバで行われたアフリカの五ヶ国首脳会談についても無視をきめこんだ。その会談では、カッザーフィーは停戦に合意していたのだ。その提案を彼は4月のアフリカ連合による使節訪問のあいだも繰り返していた。これは、西洋や湾岸アラブ諸国がカッザーフィーへの復讐を果たすために行った不必要な戦争だったのだ。この身の毛もよだつ紛争の結果、2010年の人間開発指数で169か国中53位(アフリカ大陸のなかでは最上位だ)に位置していたリビアは、人間開発の指標のひどさ——同様のあらゆるリストにおいて顕著にランクが低下している——によって特徴づけられる国に変わってしまった。

アフリカ連合が主導した和平プランの実施を許すかわりに、NATOはリビア、それもとりわけその国家機関に目標を定めて9600回におよぶ空爆を開始した。あとになって国連がNATOに対して爆撃による被害に関する説明を求めた際、NATOの法律アドバイザーであるピーター・オルソンはそうした調査を行う必要はないと回答した。なぜなら「NATOが一般市民を標的にすることは決してなく、リビアでは戦争犯罪は行われていない」から。リビアの重要な国家インフラの故意の破壊については、まったく問題にならなかった。それが再建されることは決してなく、そうしたインフラの不在こそが、今回のダルナにおける大量虐殺を理解する鍵なのだ。

NATOによるリビアの破壊こそが、つづくひと繋がりの出来事を作動させた。リビア国家は崩壊し、内戦が今日までつづき、北アフリカ全土からサハラ地域にまでイスラム過激派が拡散し、その長期におよぶ不安定化によってブルキナ・ファソからニジェールにいたる一連のクーデターが発生した。その結果として、ヨーロッパへとむかう新たな移民のルートが生み出され、サハラ砂漠と地中海の双方での移民たちの死亡をまねいた。さらには、その地域でのかつてない規模の人身売買取引をも。このリストに付け加えられるのは、ダルナにおける数多の死、まちがいなく暴風雨ダニエルに起因する死だけにはとどまらない。そこには、あるひとつの戦争による死傷者たち、リビアの人々がそこから決して回復しなかった戦争による死傷者たちもまた付け加わる。

リビアで洪水が起こる直前、となりのモロッコで地震がアトラス山脈を襲い、ティンザルトをはじめとする村々を薙ぎ払い、およそ3000人の人々を殺害した。「私は地震に手を貸すことはするまい」とかつてモロッコの詩人アフマド・バラカート (1960–1994)は書いた。「世界を破壊した塵を、私はいつまでも自分の口のなかに含んでおこう」。それはあたかもその一週間、悲劇がその巨人の足で地中海の南のへりを踏みつけることに決めたかのようだった。

悲劇的な気分は、詩人ムスタファー・タラーブルスィーのうちにも深く根を下ろしていた。9月10日、洪水の波に押し流される直前に彼はこう書いていた。「この困難な状況のなかで、私たちが頼れるのは隣人たちだけだ。私たちが溺れてしまうまで、ともに踏みとどまろう」。だがこうした気分は、また別の感情によって中断された。彼の言葉でいう「リビアの二重骨格」、トリポリとスルトに分かれた別々の政府へのフラストレーションによって。分断された住民たち。リビア国家の壊れた身体のうえに覆いかぶさる、進行中の戦争という政治的岩屑(がんせつ)。「誰がリビアを分けてしまったのか?」。そうタラーブルスィーは哀悼する。水が高まってくるあいだも書くことを止めなかったタラーブルスィーは、ひとつの詩をあとに遺した。それはいまや、彼が住んでいた街から避難した人々によって、そして国じゅうのリビア人たちによって読まれつづけている。その詩はかれらに、悲劇だけがすべてではないことを思い出させる。たがいに助けあう人々の善良さこそが「救いの約束」であり、未来への希望なのだということを。

雨、それは

道路の浸水を露わにする、

請負業者の不正を、

そして国家の失敗を。

それはあらゆるものを洗う、

鳥たちの翼や

猫たちの毛皮を。
貧しい人々に思い出させる

かれらの屋根が脆いこと

衣服が穴だらけであることを。

それは谷という谷を目覚めさせる、

欠伸(あくび)する塵や

ひからびた(かさ)(ぶた)をふるい落とす。

雨、それは

善良さのしるし、

救いの約束、

警告する(かね)()

**********

親愛の念をこめて、

ヴィジャイ・プラシャド

(翻訳:中村峻太郎、アラビア語表記等の指導:中鉢夏輝)

出典:NATO Destroyed Libya in 2011; Storm Daniel Came to Sweep Up the Remains: The Thirty-Eighth Newsletter (thetricontinental.org)(Creative Commons)

使用画像:Shefa Salem al-Baraesi (Libya), Drown on Dry Land, 2019.

アイキャッチ画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Libyaflooding_oli2_2023261_lrg.jpg


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