危機を超えて:ヨーロッパの国境における人々の移動を再検討する

プラム・クマール・ラジャラム
『フォカールブログ』
(Focaal Blog)
2015年10月19日
原文リンク:https://www.focaalblog.com/2015/10/19/prem-kumar-rajaram-beyond-crisis/
訳者前書き
上の写真は、フランス北部の街、カレーのNGOにて難民支援のボランティアに従事していた時に撮影した写真です。カレーはドーバー海峡を挟んでイギリスと向かいあっており、数多くのイギリスを目指す難民が海を渡る機会を伺いながら滞在しています。写真に連なった人々の名前は、海峡を渡ろうとしたものの命を落としてしまった方々のものです。ヨーロッパの強化されていく国境警備は、各国の極右政党が喧伝する治安悪化や文化的軋轢に基づく排外主義に下支えされています。
日本でも、2025年の参議院選挙では「外国人問題」が争点化され、極右政党の著しい躍進に繋がりました。続く2026年の衆議院選挙でも日本国外にルーツを持つ人々への排斥が強まる恐れのある公約を掲げる政党が多くの票を集めたように、この国でも移民に排他的な言説が広がりを見せています。社会保険料の滞納、医療費の未払い等、経済的負担を放棄して日本人の生活を苦しめている、日本の文化に馴染もうとせずに出身国の文化を押し付けているというような外国人への批判が頻繁に耳にするようになるにあたり、その潮流に抗うためにはどのような文章が今私たちに必要なのだろう、そんなことを考えてこの記事を翻訳しました。
日本が単一民族主義であるという神話を信じている人々の数は少なくありません。日本社会は民族的に同質であるという想像の下では、私たちの日常生活を支えている移民の人々の労働と生活が完全に不可視化されてしまいます。毎日目にするコンビニ弁当から、高齢者の介護、聳え立つ高層ビルまで、この国で日常的に消費される多くの商品やサービスの提供の多くが移民の労働に依存しています。
この短いエッセイではヨーロッパの資本主義システムの中に移民や難民がどのように位置付けられ、その労働が搾取されているのかという問いに対する構造的な視点が提供されています。ナンシー・フレイザーは自著である「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」の中で、移民への人種主義的差別と環境問題は 一見繋がりがなく見えるものの、実はどちらも資本主義のシステムに内在化されている構造的な不具合の現出であると主張しました。この船と風は環境問題を中心とする文章が翻訳されていますが、このエッセイを通して日本社会における外国人排斥と世界的な環境問題も地続きの関係性にあるかもしれないと伝われば嬉しく思います。
危機
ヨーロッパの難民危機は捏造されたものである。多くの「危機」と同様に、近年、シリア、イラク、アフガニスタン、バングラディッシュ、パキスタンなどからEUに流入しようと試みる人々は、ある特定の方法で表象されている。こその枠組みは内側と外側に向かって働く。内側に向けて、国内での比較や不平等を可能にする支配的な取締りの基礎として、(人々が国家保護の対象として異なる権利を持つと論じられるように)、支配的な統制の規範ー難民という概念ーを構築する。外側には、その枠組みによって、複雑な状況は単純化されて理解され、政策決定者やコメンテーターが難民危機を例外的な状況のように論じるようになる。難民危機は例外として普通の政治的状態とは異なる一時的な出来事として扱われ、国民国家を基礎とする垂直的な政治体系が産まれる。チャールズテリーの印象的な主張を借用すれば、国家が「用心棒代の取り立て人」として危険や脅威を定義することで、権力と国家領域への管理を強化するのが「危機」の正体である。
人々の移動、またいかなる社会的現象も「危機」として扱うと、その複雑な社会的プロセスがフレーム化され、歴史的に、社会的に、そして政治的に、危機と看做されない通常の社会的プロセスから深く引き離されてしまう。危機という概念は、実際は全く同じ人口の移動という現象を、秩序ある移動とより好ましくない移動に二分化してしまう。「難民危機」は通常の秩序だったビザ制度に基づく移動と対称化される。それは、ありきたりな人の移動を、秩序だった形への可能性と好ましさと照らして初めて、危機として扱われるようになる。よって、危機を唄う説明は恐怖による不安を基礎としている。これはつまり、難民危機は国家についてであるいうこと、つまり国家が保証する領土の安定を守る能力についてであるといえる。難民の問題が喫緊の国家規模の問題となり、倫理や道徳を制限した上での国家責任に関する決断が正当化される、ある種の追放のようなものである。よって、私たちは、国家同士が受け入れる難民の数やカテゴリを交渉しあうグロテスクな様子を目の当たりにしているのである。
昨今の人口の移動を危機と解釈するのは政治的立場を超えて看取される。ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相や哲学者スラヴォイ・ジジェクは漫然と、そしておそらく恣意的に危機の言葉を利用する。オルバーンは、キリスト教中心のヨーロッパを脅かすムスリムのイメージを広げ、難民危機を見せかけの国内のロマ人の問題と無理やり繋げようするので悪名高い。ジジェクも、国境の開放はヨーロッパで即座に大衆の反乱を引き起こすため不可能であると知っているものの、それを主張する偽善主義的な左派系リベラルへの注意を警告している。しかし問題は、私たちが何を知っているか、知ることができるのかではなく、いかにして知るのかという問いである。危機の物語は政治的に可能なこと、関係のないこと、そして怯えなくてはいけないことに関するアイデアを確立、維持する。
一つの表象として、危機の物語は、現在の人々の移動と(その対照である非移動化の戦略)をヨーロッパ国家とその資本主義経済の構築を支えた、異なる移動と非移動の形態から切り離す。この「出来事化」が複雑な社会的プロセスを区切り、特有な介入と特有な主体の構築を可能にする。換言するならば、出来事化は、特有な表象と介入の枠組みの外には本来存在しないような問題に対応する特定の政治、この場合ならば、脱政治化の政治のみを優遇する。
難民
とりわけ、難民という言葉は、論考や批評で幅広く取り上げられてるものの、介入と政治的可能性と好ましさに関する限定された解釈を作り上げている。ジジェクは難民を作り出すような社会状況をなくすために世界経済の貧困に対応すべきであると主張している。これは、難民はヨーロッパの割り当てシステムによる移動の制限を受け入れるべきと主張するような他の論説でも見受けられる、ある種の非移動化の戦略である。
世界経済の貧困をなくすべきであるのにはいくつも理由が存在するものの、難民を生み出す状況を作らないようにすることはその一つとして当てはまらない。そのような試みはきっと、人生の選択として移動が望まれない状況を作るのには繋がらず、人口の移動を非正当化するだけである。1951年のジュネーブ条約と67年の難民の地位に関する議定書は決して、保護する権利を表明するためだけに策定されたのではない。その条約は迫害を逃れる人々を守るのと同時に、国家を守る手段としても機能しているのである。
難民はEUが居住地を決定する方針に従うべきとする非移動化の戦略は、ヨーロッパのアイデンティティを争点とする、特有の文化的な危機の理解に呼応している。その中心には、ヨーロッパのアイデンティティというものが、第一にまず存在する、第二にその形態のまま保護されるべきである、そして第三に、難民の移動がそのアイデンティティを揺れ動かすため、丁寧に管理されるべきであるという考え方がある。ヨーロッパのアイデンティティという考え方は、他の大きくて抽象的な概念と同じように、選別、抑圧、排斥と、つまりは価値ある者とそうでない者を生権力的に区別するプロセスによって成り立っている。バブリアーが述べているように、難民という単語が移民より望ましいかという問いや経済移民という言葉への批判への再検討などはあまり有益な議論ではないと言える。存在するのは移民でも難民でもない。文化的、政治的、イデオロギー的な観点から、ー全ての国境においてー異なる人々や主体を管理し階層化する生権力的なプロセスの形態があるのみである。
資本主義と人種
ヨーロッパにおける現代資本主義の生権力的、人種的な排斥と「難民危機」への対応には共通項があると言える。そのうちの一部は明白で実証的なものだ。過剰に賞賛されるセルビアとハンガリーの国境フェンスの建築は公共勤労スキームというロマ人が不釣り合いに多く動員されている福祉プロジェクトによって可能になっており、これは福祉受給者へ批判的な政治的文化を反映している。北西に位置するハンガリーで最大の難民キャンプが排除された地域は、ロマ人の区域が清掃されたところでもあり、キャンプはショッピンモールへと、そしてミスコルク付近のロマ人区域はサッカー場に取替る予定である。農業やその他の産業を担う非正規移民へのヨーロッパ経済の依存は、ギリシャ、イギリス、イタリアで働く、十分な賃金を得ていない(また時には賃金が支払われていない)中国やバングラディッシュの労働者数に反映されている。同時に、国境ではハンガリー政府が恣意的に例外状況を宣言し、武器の使用に加え、難民が隠れているであろうと考えられる住居に侵入し調査する許可を得た軍隊を派遣する。
余剰人口の生産の議論が、外部と内部の厄介とされる人々の統治の関係性を示す繋がりを提供できるであろう。端的にまとめると、マルクスによれば、余剰、つまり非生産的な労働余剰の生産は、労働の生産に必要不可欠な補完物である。(公共事業スキームで働く者に代表されるような)余剰人口は生産様式から排除されているのではない。むしろ、彼らは規範とは離れた関係性を保ちながら、低賃金でブラックな仕事に従事する必要があるとして動員される。フーコーは、微細な権力、つまり人々へのローカル化された行為の実践によって、余剰人口は制限されていると主張した。ハンガリー政府や他のヨーロッパ政府の移民に対する行為はこの微細な権力の行使であって、メタレベルの資本主義的な労働と余剰労働の生産の論理的な延長線上に存在する。
移民の統治は国内の政治社会的なプロセスと隔てられているのはなく、むしろそれらの結果であると言える。例外状態の宣言は、その実態はというと、余剰人口を国民国家の周縁に位置付ける手段であり、余剰労働者、非生産労働者を再生産し続ける現在進行中のプロセスの起点である。換言するならば、ロマ人のような厄介と論じられるような国内の人々と、移民や難民といった国外の人々の統治には弁証法的な関係性があると言える。移民を攻撃する言説と、国内の厄介な人々を批判する言説は容易く地続きになっている。余剰人口、つまり経済・社会的規範と周延的な関係を持つ人々の生産の議論が示唆するのは、ヨーロッパにおける国内政治・ヨーロッパの資本主義と移民・難民の統治を結ぶような関係性の理解である。
政治
危機の言説はある特定の種類の介入を引き起こす。危機の中核となるのは、暗黙の方法論的ナショナリズムである。このような国境における危機の理解は、国境のコントロールを中心とした国家主導の介入の政治の土台となる。「用心棒代の取り立て人」としての国家はその仕事を進め、国家主権を脅かす可能性があるものを、社会自体を脅かすものへすり替える。危機の物語は、暮らし方を保護する守護神として国家を祭り上げるような議論に利用され、国家の道徳的価値や意味を巡る文化的、感情的な説明を正当化する。
この中心的な帰結として、ヨーロッパ市民が、何が道徳的、倫理的行為かを決定する権利を国家に進んで譲渡するようになる。よって、ヨーロッパの入口における、移動する人々への垂直的、国家中心的な介入が多分に正当化されてしまった。危機の物語と、移民や難民の例外状態への追放はこの状態を脱政治化してしまう。政治的規範の外側に人々を位置付けることで、国家は以下の3つの種類の脱政治化のアクションを正当化する。人命の救助を中心とする人道的アプローチ、暴力が正当化されるような安全保障のアプローチ(ハンガリー国境における非武装の人々への反テロリズム部隊の動員をみよ)、そして、上訴する権利のような法的リソースへの権利を制限しながら、スピーディーで、コスパが良く、抑止的な手続きを優先する、専門的、管理的な難民認定へのアプローチである。
このような垂直的かつ国家中心的な戦略が脱政治的であるということは、当然、これらが非政治的であるということを意味するのではない。それは、難民や移民の政治的な道具化が隠蔽されることを意味する。つまり、危機を脱政治化する物語と、管理と支配を脱政治化する同様な戦略という重しのもとでは、難民や移民の国家形成における有用性や、かれらの管理と国内の”厄介な”人々の管理との関連の仕方が、見極めづらくなっているのである。
しかし、異なる(平行的な)政治形態も存在する。ヨーロッパ国境への人々の到来は、国家規範や国家を唯一の正当な政治的アクターとするアイデアに真っ向から対抗する連帯に基づいた対応や活動によって迎えられた。そのようにして、集団(組織化されているものもされていないものも)は「危機」、つまり、管理的、専門的で、安全保障を進める国家の介入を必要とする明白な脅威があるとする物語を暗黙のうちに批判した。そのような活動(例えば、人々が国境を越えるのを助けたり、家で保護したりというようなもの)は、国家の期待を超えて連帯と倫理の関係性を引き伸ばし、積極的に「用心棒代の取り立て人」としての役割に疑問符を投げかけ、状況を再度、政治化する。このような活動は、ダブリン条約と(その背後にある経済的に豊かでない国家がより多くの責任を背負う必要があるような帝国主義の)人為的な束縛や、ヨーロッパのアイデンティティを他者が齎すものへの恐怖を中心するような文化的価値に疑問を呈する。昨今、活動家たちは、外側であれ内側であれ、国家が厄介と判断した人々を管理する方法の国家間における関係性について指摘している。このような平行的な政治は、オルバーンやジジェクに見受けられる国家中心主義と恐怖を乗り越えた政治と道徳的な選択肢を提示している。新しい関係性と連帯を涵養する可能性を示し、危機の物語によって生産される蒙昧主義を打ち壊しているのではなかろうか。
翻訳:Yuki
Republished under the permission of the author.
Rajaram, Prem Kumar. 2015. “Beyond crisis: Rethinking the population movements at Europe’s border.” FocaalBlog. 19 October. www.focaalblog.com/2015/10/19/prem-kumar-rajaram-beyond-crisis.
使用画像:『命を落とした人々を悼む追悼式』(翻訳者撮影)
