タイムマシーンの幻想と、気候科学者たちの責任
ウィム・カートン、アンドレアス・マルム
『カンバセーション』2024年10月9日
はじめに
気候変動に関するパリ協定が2015年12月に議決されたとき、 わずかな時間であれ、それは奇跡のような事柄に見えていた。気候アクティビストたちや、もっとも貧しい地域――今日の富裕な諸国家による植民地化のために、気候変動にほとんど寄与していないにかかわらず最悪の破壊をこうむることになる地域――からの代表団にとっての、政治的な勝利なのだと。
世界がとうとうグローバルな温暖化の上限について合意をしたのだ。そしてたいていの専門家を驚嘆させたことに、そこでは1.5°Cという限度目標が掲げられていた。小さな島嶼国家が、海面上昇の緊急の脅威のなかで、何年にもわたり倦むことなく要求してきた目標だ。
あるいは少なくとも、そうであるように見えた。[だが、]野心的なパリ協定の限度は、そもそも限度などというものではまったくないということが、すぐに明らかになった。世界で随一の気候専門家の集合体である気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が、2018年の特別報告書により1.5度目標にお墨付きを与えたときに、奇妙な事態が露呈したのだ。
グローバルな暑熱化を産業革命前の水準から1.5°C までに制限するためのほとんどすべてのモデル経路が、この目標の一時的な超過を含んでいたのだ。どの経路もやはり最終的には1.5°C に帰着したが(デッドラインは2100年というランダムな終着地点だ)、まずその前に1.5°C をまたぎ越している。
温室効果ガスの排出――その要因はまず何よりも化石燃料の燃焼だ――に地球の気候がいかに反応するかをモデル化することに責任を負った科学者たちは、これらを「オーバーシュート」[=超過]シナリオと呼んだ。気温の限界が目の前に現れるのとほとんど同時に、こうしたシナリオが、気候変動の緩和を(想像のなかでは)進展させることになる支配的な経路となった。
事実上、彼らが言っていたのはこういうことだ――気温限度以下にとどまるということと、まず一度それを破ったあと、数十年後に、大気中から炭素を除去する方法をもちいて気温のつまみをふたたび下にさげるということとは、同一のことである。
科学的な研究論文の一角は、これが幻想以上の何ものでもないということを断言した。『ネイチャー』で発表された新しい研究は、いまやこうした批判を確証している。一度それをオーバーシュートしたのちに、地球の気温の温暖化を1.5°C以下に回復させる人類の能力を保証することは、不可能だということが判明したのだ。気候変動の影響の多くは、その本質として取り返しがつかない。そうした影響はもとに戻すのに何十年とかかるかもしれず、[現在の]気候政治に直接関係する地平をはるかに超えている。 将来の政策決定者にとっては、気温が最終的にふたたび低下するかもしれないということはほとんど重要ではない。彼らが対策を練らなければならない影響とは、オーバーシュート期そのものによるものだからだ。
オーバーシュート・イデオロギーの勃興
たとえグローバルな表面気温の平均が[減少へと]反転したとしても、地域的なレベルでの気候状況はかならずしもグローバルな傾向に従わなかったり、以前と違うものになったりしてしまう可能性がある。例えば海流の変化は遅れて現れるため、惑星の他の部分で温暖化が止まっても、北大西洋や南極海では温暖化は継続するかもしれない。
オーバーシュートの期間中に蓄積される損失や損害自体、それがいかなるものであれ、言うまでもなく永続的なものとなるだろう。1.5°C以下であれば防がれていたであろう熱波によって家畜たちが死に絶えてしまったスーダンの農家にとっては、 彼女の子供が成長するころには気温がかつての水準に戻る予定だと知らされたところで、ほとんど何の慰めにもならない。
さらに、惑星的な規模での炭素除去の実行可能性は、疑わしい。グローバルな気温を低下させるのに十分な量の樹木やエネルギー作物を植えるためには、大陸まるごと分の土地が必要になるだろう。何ギガトンもの炭素の直接空気回収(DAC)は、けた外れの量の再生可能エネルギーを消費することになり、したがって脱炭素化と競合することになる。そのために、いったい誰の土地が使われることになるのだろう? こうしたあらゆる過剰なエネルギー使用の負担を、みずから引き受けたがる人などいるだろうか?
もし[減少への]反転が保証されえないのであれば、パリ目標の一時的なオーバーシュートの想定を是認するのは、どう考えても無責任だ。だがしかし、これこそまさに科学者たちが行ってきたことに他ならない。何が彼らにこの危険極まりない道を歩ませることになったのだろうか?
このトピックについての私たちの本(先週Verso社から出版された、『オーバーシュート:世界はいかに気候崩壊に屈したのか』)は、このアイディアの歴史と、それに対する批判を提示している。
オーバーシュート・シナリオが2000年代初頭に呼び出されたとき、その単一のもっとも重要な理由は、経済学だった。急速かつ短期的な排出削減は、ありえないほどコストがかかり、それゆえ口に合わないと思われたのだ。コストの最適化は、排出削減を可能なかぎり先の未来へと押し込むことを命じていた。
ありうる緩和の軌道を予測するためのモデルは、そのコードのなかに上記の原則を書き込まれてしまい、そのために1.5 °C や2°Cのような「低い」気温目標を算出することが大部分不可能になってしまった。そしてモデル作成者たちが、自分たちがそのなかで仕事をしていたきわめて保守的な制約を乗り越えて想像力を働かせることができなかったがために、何か別のものが乗り越えられなければならなくなった。
あるチームは、大規模な炭素除去は将来的に可能であり、それゆえ気候変動を逆転することに役立つ、というアイディアによろめき寄った。EUとIPCCはそれを採用し、やがて、オーバーシュート・シナリオは専門文献を植民地化していった。主流派経済学への盲従によって、政治的な現状通りが防衛されることになった。それはひるがえって、気候システムに対する無謀な実験へと翻訳された。社会が持つ変革能力に対する保守主義や運命論[的な諦め]は、自然に対する極端な冒険主義へと転落したのだ。
タイムマシーンを葬り去るとき
気候運動が重要な政治的勝利を達成し、世界が野心的な気温限度[目標]のもとに結集するように仕向けたまさにその瞬間に、影響力のある科学者たちの集団は、気候変動についての世界でもっとも権威ある科学者団体[=IPCC]という増幅器を使って、見事にその火消しをすることに手を貸したのだ。パリ協定以後の時期についてはありとあらゆることが語られ記されているが、このことこそがその最大の悲劇のひとつであることは間違いない。
「オーバーシュートと回復」という幻想を呼び起こすことによって、科学者たちは気候変動対策を遅らせるメカニズムを発明し、排出を今すぐに制御することなど本当はまったくしたくない人々(そしてその数は多い)に、不本意ながらもお墨付きを与えることになってしまった。すなわち、あともうちょっと長く石油やガスや石炭を出回らせておくための言い訳なら、何にでも手を伸ばしたがっているような連中に。
この新しい論文の調査結果は、この上なく明白なものだ――翼をひろげて待っていてくれるようなタイムマシーンなど存在しない。一度1.5°Cを過ぎてしまえば、その敷居は永久に壊れてしまったものと思わなければならない。
そうなると、野心的な気候変動の緩和への道は、一つしか残らない。そして二酸化炭素除去をどれだけ行ったところで、この不都合な政治的結論から私たちが放免されることはありえない。
気候崩壊を回避するためには、「オーバーシュートと回復」という幻想とともに、それに伴う幻覚――パリ気候目標は、現状の世界を転覆することなしに実現することができる――をも地下に葬り去らなければならない。化石燃料資産を座礁させ、石油とガスと石炭から利益を上げる機会を遮断することに私たちが成功しないかぎり、限界は次から次へと破られていくことになるだろう。
私たちは、化石燃料の利害と対決し、それを打ち負かすことなしに、気候変動を緩和することはできない。気候科学者たちがこのことを率直に認めることを、期待しなければならない。
翻訳:中村峻太郎
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