エプスタインの家族価値

(Epstein Family Values)

メリンダ・クーパー

『Equator』2026年2月14日

原文リンク:https://www.equator.org/articles/epstein-family-values

Illustration by Sama Ben Amer

1.

現代のアメリカ極右の比較的風変わりな特徴のひとつに「原父(primal fathers)」の出現がある――『旧約聖書』に登場する、ひとつの家族だけではなくひとつのレイスの父親たることを欲する家父長たちのことである。もちろん彼ひとりだけでは決してないのだが、イーロン・マスクはそうした〈野心深きアブラハムたち〉のうちで最もよく知られている人物である。『ウォールストリート・ジャーナル』の長文レポートが証言しているように、マスクは、子供たちの「軍勢リージョン」とみずから名づけるものをこしらえたいという欲望を抱いている。その子供たちは、人口の急降下から人類を救い出し、彼の優れた遺伝子をはるかな未来にまで運び届けることになるというわけだ。スペースXのあるロケットは、宇宙汎種パンスペルミア説(宇宙塵を介して有機的生命が私たちの惑星に到着したとする理論)を裏返しにしたようなプロセスで、彼のタネを地球の外にまで移送する準備を整えている。

マスクは現在までに、四人の女性たちとのあいだで少なくとも十四人の子供を持っていると考えられており、彼女たちの法的・財政的な問題は彼の家族オフィスの局長であるジャレド・バーチャルによって部分的に管理されている。マスクは子供たちのうちの一人に「俺たちがアポカリプスより前に軍勢レベルに達するためには、代理母たちを使う必要が出てくるだろう」とテクストメッセージを送った。この事業のスケールアップを準備するなかで、彼はテキサス州オースティンに多世帯用の集合的住居を購入している。

シリコンバレーのプロナタリズム〔出生奨励主義〕は、一般に優生学の一種として理解されている――そうした読解は人種的純血化への欲望を捉えたものだが、純血性が追及される個別のプロセスについては捉えられていない。革新主義時代〔1890~1920年代ごろ〕におけるアメリカの「古典的」優生学者たちは、遺伝上の異常を排除しようと努力し、それを精神的な退化〔変質〕やその他の社会的害悪のみなもととみなしていた。対照的に、マスクやその同類たちは、トランスヒューマニズム〔超人間主義〕という疑似科学に没頭している――エラーを抹消することよりも、例外的な逸脱者を顕彰することに関心があるのだ。理想的な家父長とは、彼の超人的IQによって知性の正規分布からはずれた人物のことなのだ。彼は白人の遺伝上の遺産を保全しようとしているだけではなく、それを新たに聖別されたばかりの土台のうえに蘇らせようとしている。原父たちは、古い人種の祖先としてではなく、この新たな人種の創設者として崇拝されることになるのである。

原父とは、神話の題材である。『トーテムとタブー』のなかでフロイトは、原始的な無意識が、横柄オーバービアリングな家父長〔overbearには「多産である、子供を産みすぎる」という意味もある〕と嫉妬深い息子たちからなる群族(horde)によって住まわれていたことを示唆した。父は、年齢や親族関係におかまいなくあらゆる女性にたいする排他的な所有権を要求する。彼の専制的支配が廃されるのは、兄弟たちが立ち上がり、彼を殺害して、女性たちが共同的な所有物となる新たな体制を担ぎ上げるときのみである。フロイトは、これがまがい物の前史であることを包み隠さずに認めていた。原始群族〔もともとはダーウィンが提唱した仮説〕という神話の背後には、いかなる発達論的ないし人類学的なサブテクストも存在せず、存在するのは患者の心のなかの抹消された痕跡でしかない。

だがこの空想ファンタジーは、ときおり現実生活のなかでも演じられる。それが最も明瞭になるのはカルト指導者の場合であり、彼らは興味を惹かれるほどの的中率で、最後には自分たちが究極の独占的権利を保持する強制的な共同体セックスの体制を打ち立てることになる。かれらもまた単一家族の住居よりは集合的住居を好んでおり、相続という難問に直面したときには不死と神格化のファンタジーを引き合いに出す。差し迫ったアポカリプスの常態化〔正常化〕は、こうした恐怖の世界観的コスミックな翻訳として読み取ることもできる。カルトの指導者たちにとって、みずからの個人的権力の喪失よりも世界の終わりを想像することのほうが容易なのだ。

こうした精神性は言うまでもなく、宗教右派がたてまつっている伝統的な家族価値とは明らかに折り合いが悪い(これがMAGA連合のさまざまな流派のあいだで不気味な響きをたてている不和のひとつの理由である)。原父たちが望むのは拡張された家庭(household)であって、家族(family)ではないのだ。かれらは姦通、近親相関インセスト、世代間セックスにたいする保守的なタブーを嬉々として侵犯するが、それは彼らの家庭のあらゆるメンバーが、その血縁関係がどうあれ、使用人という地位を有しているからなのだ。

彼らの家庭経済(household economy)の明確な特徴は、ジェフリー・エプスタインの事例のことを考えてみれば、ますます明白になる。マスクと同じく、エプスタインもトランスヒューマニズムに魅了されており、みずからのDNAを人間という種のなかに植え付けることを夢見てきた。二〇〇八年、未成年者への売春を募集したことで有罪になったのち、エプスタインはニューメキシコのゾロ牧場に隠棲して同時に二〇人の女性たちを妊娠させることを夢想していた。死後に公刊された回想録『誰でもないものの少女(Nobody’s Girl)』のなかで、ヴァージニア・ロバーツ・ジューフレイ——十六歳のときにエプスタインと当時のガールフレンドであるギレーヌ・マクスウェルによってリクルートされた――は、彼女を虐待した二人が、彼女を自分たちの未来の子供(彼女には何の親権も与えられない)の代理母として面倒を見ることを提案してきた、と語っている。その子供を育て、世界中でのエプスタインとのランデブーに同伴させるために、かれらは月々二〇万ドルを彼女に支払うことになっていた。自身の子供が虐待されることを恐れたジューフレイは逃亡計画を仕組んだ。

エプスタインの事例がマスクの事例よりも多くのことを教えてくれるのは、それが、フロイトが原始的無意識のなかに見て取った二つの性的所有のエコノミー――家兄長的(fratriarchal)なものと家父長的なもの——を結び合わせているからだ。エプスタインは、仲間の捕食者たちに「俺のものはお前たちのものだ」と伝えることによって、そしてその証拠写真を保持しておくことによって、ゆるぎない絆を作り上げることに成功した。この意味で、彼は若い女性たちや少女たちが、社会的接着剤の一形態として原兄弟たち(primal brothers) のあいだで共有される家兄長的なシステムを確立したと言える。だがエプスタインはまた、こうした女性たちの少なくとも幾人かを彼自身の不可侵の私有財産として保持することも望んでいた。彼の将来の子供たちの母親たちは接触禁止とされることになっており、アクセス不能な集合的住居の壁の向こうに幽閉されていたという。

エプスタインの家庭経済はしたがって、女性たちを二つの性的所有体制のうちのどちらかに割り当てるものだった――彼女らが成長するにしたがって、家兄長的なものから家父長的なものに徐々に移行するのである。あらゆる女性や少女たちが、ひとりの男性の所有物となる。さもなければ、あらゆる女性や少女たちが、あらゆる男性の所有物になる。

2.

フロイトは原始群族を、無意識の領域にきっちり収まるものだと考えていた。それが表面に浮上するのは、謝肉祭のような組織化された逸脱の瞬間のあいだだけなのだ、と。だが原父や原兄弟たちをふたたび体現したいというシリコンバレーの極右たちの欲望には、間接的であったり潜在意識的であったりするものは何もない。実際のところ、その指導的な「哲学者」であるピーター・ティール――元祖「ペイパル・マフィア」の一員――がフロイトに出会ったのは、彼が一九九〇年代にスタンフォード大学で教えを受けたキリスト教徒の哲学者ルネ・ジラールの著作を通じてのことだった。

ティールは現在にいたるまで自分のことをジラール主義者だと呼んでいるが、彼のフロイトの読解はあくまで自己流のものだ。本一冊分の長さをかけてみずからのビジネス哲学を宣言した『ゼロ・トゥ・ワン〔関美和訳、NHK出版〕のなかで、彼はシリコンバレーの創設者支配による企業の政治経済学ポリティカル・エコノミーを分析するためのプリズムとして『トーテムとタブー』を用いている。彼はスタートアップの創設者たちを偶像破壊的な兄弟たちとして祝福する。すなわち、グーグル、アマゾン、マイクロソフトのような現在王位についている独占モノポリーという父権的権力の転覆をもくろむ兄弟たちとして。この「テック・ブロー」連合は、その〔独占を〕妨害する能力を証明してきたが、ティールが正しく警告しているように、その最初の役割は固定されたものではない。かれらの父親が犠牲にされるやいなや、兄弟たちは殺人的な競争のなかへはまり込み、それぞれの息子が独占モノポリーを作り出す個人的権利を主張しはじめる。「極端な創設者は、歴史のなかでは新しいものではない」と、ティールはオイディプスとロームルス〔伝説上のローマの建国者〕を引き合いにだしながら書いている。

アメリカ司法省によってつい最近に放出された押収文書のおかげで、私たちは今ではエプスタインがシリコンバレー極右の主導的な人物たちと近い位置にいたことを知っている。ブレグジットののちに彼はティールとメールのやり取りをして「部族主義の回帰」を祝福しているし、その死のまえに彼はティールのテック・ベンチャーに何百万ドルも投資していた。エプスタインは、みずからをティールの言う悲劇上の創設者という人物像として見なしていたことだろう。彼はみずからを、「法の上で」行動し、独自の法を作ることを運命づけられた人物と見なしていた。ジューフレイによれば、彼は脆弱性のサインを求めて被害者たちの子供時代の物語を飽くことなく尋問していたが、自分自身の生まれ育ちについて聞かれるといつであれ拒絶反応を示した。エプスタインは、どこでもない場所から来たかのように、孤児の息子のようであるように見える。最新の司法省の押収品に含まれていたスティーブ・バノンによってテープ化されたビデオ・インタビューのなかで、彼がみずからに与えていた配役は、ビル・クリントンやポール・ヴォルカーのような長大な伝記的事実を背後にたなびかせることのないアウトサイダー――「ジェフリー・エプスタイン、ただのいい子」――というものである。

もし原父の神話学が新たなエリートによって好まれているビジネス形態へと転写されているとしたら、それはまた別のしかたでも彼らの家庭内の編成にあてはまる。ここでの適切な参照点は核家族ではなく家庭経済であり、そこでは生産が再生産から切り離すことができず、ビジネス資産の管理は家族の所有物の保全と共存している。

グローバルな金融危機以来に蓄えられてきた極端な富は、少なくとも英米においては、二十世紀中盤以来ますます希少なものになっていた労働形態を復活させてきた――大規模で、長期にわたる、住み込みの家事サービスである。トランプとエプスタインがかつて肩を組みあい、現在多くのアメリカの億万長者たち(そして大統領の最も近しい側近たち)が住んでいるパームビーチについて考えてみよう。この十年間で、ブラックストーンの創設者であり共和党への巨額の寄付者であるスティーブ・シュウォーツマンが引っ越してきた。そしてシタデルのケン・グリフィンやヘッジファンド・マネージャーのポール・チューダー・ジョーンズが。他にも、デヴィッド・コッホの未亡人ジュリアや、KKRの共同創設者であるヘンリー・クレイヴィスが長年の住民だ。かれらの家庭は、単なる居住空間ではなく主要な雇用の源泉でもあるのであり、それぞれ何十人もの永続的ないし季節的労働者を引き寄せている。パームビーチ郡の比較的貧しい地域や、ニューヨーク、アイルランド、南アフリカやルーマニアといった、ずっと遠くの場所から。

こうした家事サービスの形態は、暗黙のうちにどこか「主人と使用人」法に似たものによって支配されている――すなわち、かつてその私的な統治領域をめぐる実質上の支配権を主人たちに認め、屋内監禁、投獄、さらには身体的懲罰のような犯罪的制裁によって労働者たちを罰していた雇用形態である。主人・使用人法〔十八~十九世紀にイギリスで施行された〕が中世イングランドにその起源を有していること考えてみれば、こうした展開を封建制への回帰と同一視することは容易いことだろう――このような現在の複合状況の読解はますます人気のあるものになっており、その代表例としてヤニス・ヴァルファキスの最近の仕事がある〔『テクノ封建制』関美和訳、集英社〕

こうした議論はその多くをマルクスに負っている。彼は属人的な家事サービスは、封建的関係が自由な労働契約に道をゆずるなかで時代遅れなものになるだろうと示唆した。だが思い出しておかなければならないのは、マルクスの予測とは反対に、家事サービスは一九世紀後半に拡大したのであり、その拡大は、産業・金融による富の集中にもかかわらず生じたのではなく、まさにそのゆえにこそ生じたのだ。さらに言えば、主人と使用人の関係は、二十世紀にはいってからも長く持続しており、近年の数十年でカムバックを果たしてきた。公式の法的編成としてではないにせよ、少なくとも事実上の編成として。

これらの法は、それが家庭内の使用人(とりわけ黒人の女性)の扱いが問題になるとき、とりわけ追い払うのが難しいことが知られていた。労働者を組織化するいかなる試みも、彼女たちは家族のメンバーであり、したがって最近親者と同じ形態の酷使〔虐待〕によって扱われるべきなのだ、という議論によって迎えられることになった。こうした点から私たちは、家庭経済の領域を支配している明確な「カテゴリーの混乱」の感覚を理解することができる。核家族が家庭と市場、私的生活と労働生活のあいだの理念的な分離を仮定するのにたいし、主人・使用人の法は、ふたつの領域のあいだの完璧な融合を想定している。

エプスタインは、個人所有の島であるリトル・セント・ジェームズとともに、複数の大きな地所を――パームビーチ、ニューヨーク、パリ、そしてニューメキシコに――所有していた。彼の従業員名簿には、何ダースもの、もしかすると何百人もの敷地内スタッフが含まれていた。法律顧問やボディガードから、運転手、調理人、清掃人、庭師、メンテナンス作業員、そして「マッサージ師」にいたるまで。訪問者たちは、エプスタインとの正確な関係――個人的なものであれ商業的なものであれ――を判定するのがしばしば困難であるような付添人たちのヒエラルキーを描写している。法律家アラン・ダーショウィッツのような男性のビジネスパートナーたちは〔エプスタインの〕友人でもあり、複数の被害者の申立てによれば、性的犯罪のときおりの参与者でもあった。エプスタインの被害者のおよそ二〇人の代理人となったフロリダ州の弁護士ブラッドリー・J・エドワーズがその著書『容赦ない追及』のなかで指摘しているのは、公式のガールフレンドとして配役された人物(典型的には比較的年長かつ裕福)が、特権的な側近サークルを形成し、ときには虐待の共犯関係にあったということだ。もし関係が良好な状態で終われば、彼女たちは昇格を受け、マクスウェルとともに若い少女たちの周旋業にフルタイムで参加する場合もあった。

3.

エプスタインの富がどこから来ていたのかは、いまなお捉えがたい。私たちが知っているのは、彼がレス・ウェクスナー(ヴィクトリアズ・シークレット)、レオン・ブラック(アポロ・グローバル・マネジメント)、そして直近の解明によれば、不動産業界の大物であるモーティマー・ザッカーバーグとその遺産相続人であるアリアン・ド・ロスチャイルドといった億万長者たちの財政アドバイザーや財産プランナーとして仕えていたということだ。こうした人々が彼に支払っていた桁外れの料金については、いまだに説明が拒まれている。〔だが〕私たちが間違いなく知っているのは、エプスタインがこの金をどのように使ったかということだ――すなわち。フルタイムのパトロン業という自身のビジネスのための買収資金としてである。ほかのエリート男性たちとの取引のなかで、彼は財政的および性的な厚遇の約束をちらつかせていた。彼の受益者たちは、一見したところリスクのないエプスタイン邸への訪問(実際には写真の記録が山のように残っている)とならんで、研究ユニットのための資金を受け取っていたかもしれない。その見返りとして、彼らにはエプスタインにたいして、より高次の有力者サークルへのアクセスを保証することが期待されていた。

財政的にも性的にも、エプスタインはみずからの名声をその受益者たちのそれと結び合わせた。彼の名前に傷がつくことは、不可避的にその顧客たちの名前も汚すことになるはずだった。長年にわたって、こうした編成は事実上の法的な免責特権へと翻訳されていた。二〇〇八年、連邦検察官たちは、三六人の若い女性たちによる証言があったにもかかわらず、彼にたいして完全な性的人身取引の告訴を発行することができなかった。

エプスタインは、若い女性の被害者たちにたいしてすら、みずからをパトロンとして仕立て上げていた。彼がニューヨークでピックアップした女子生徒たちは、アイビーリーグの授業料負担や有名なアートギャラリー所有者への口利きを約束されていた。ウェスト・パームビーチのトレイラーパーク出身の十代の少女たちは、職業的なマッサージ師に、あるいは最低でも他の少女たちのフルタイムのリクルーターになれるかもしれなかった。(逃亡したジューフレイは、タイで最も有名な学校でマッサージ師として訓練を受けることになっていた)。少なからぬ被害者たちは、彼のパトロン関係をほんものの経済的代替手段と見なしていた。エドワーズ弁護士によれば、彼が代理人を務めた被害者たちの何人かは自身の家庭内で〕児童虐待を受けており、暴力的な家庭の出身だった。なかには、低賃金のセックスワークから救いだしてくれたことで心からエプスタインに感謝している女性たちもいた。

それは最初の「メッセージ」セッションで支払われる一〇〇ドルだけにはとどまらない――エプスタインはまた、さまざまな経路のキャリアを約束してもいた。だが性的パトロン関係は、すぐさま性的年季奉公に姿を変えた――小さな贈物については寛大だったが、彼が大きな約束を果たすことは決してなかったのだ。要点は、被害者たちを永続的な債務状態へと置きつづけておくことだった。

エプスタインは、自分が会ったほとんどすべての人間を責務と従属からなる増殖する連関のなかに巻き込んでしまうため、責任の所在を明らかにするという仕事はつねにない困難に満ちている。彼の家事スタッフは全員、あるレベルでは、性的虐待に加担していた可能性が高い。そのうちの少なからぬ人々が、何が行われているのか直接に知っていたことは間違いない――若い女性たちが階上にのぼるまえにキッチンで挨拶をしていた有名シェフ、マクスウェルがニューヨークの各地で学校の女子生徒たちをスカウトしていたときの運転手、そしてベッドルームとバスルームの掃除をしていたハウスキーパー。エプスタインの最下層の被害者たちですら、他の少女たちをリクルートすることで最悪の状態から脱することができたと証言されている。複数人による描写によれば、エプスタインの家庭経済とは、参加者がみずからを独立した契約業者として見なすよう奨励される、精巧なピラミッド機構だった――すなわち、主人によるリクルートのニーズを満たしている限り、モデル業やアートの「小規模ビジネス」を自由に運営できるのである。では従属的な自己利益は、どの地点で共犯関係へと転じたのだろうか?

警察や検察官への証人陳述のなかで、被害者たちは、エプスタインとマクスウェルが最も恐ろしい虐待のさなかに作り出していた不気味なまでに家族的な信頼関係ラポートに注意を促していた。ある少女は、暴行を受ける前に彼らとともにポップコーンを食べ『セックス・アンド・ザ・シティ』を鑑賞していた。マクスウェルは、別の証言によれば、妹たちを洗練された大人の世界へといざなうクールなお姉さん役のように振る舞っていたという。

親族の結びつきは、自由市場の関係とは異なり、契約によらない形態の責務――金銭と引き換えにいつでも解消できるわけではない絆――を呼び起こす。家庭経済は、この契約によらない責務を、家族のメンバーだけでなく労働者たちにまで拡大し、両者のあいだの核にある区別を消し去る(ただしそこにあるヒエラルキーは温存したまま)。かつての被害者のひとりは、「友人、父親役、雇用者および主人」としての彼に負債の感覚が存在していたため、エプスタインのもとから脱出することに困難を感じていた。ジューフレイの語りによれば、エプスタインとマクスウェルは彼女の両親のように振る舞い、歯科医療やテーブルマナーまで提供していた。

だがまた別のときには、ヴァージニアは母親として配役されることもあり、朝にエプスタインに靴下をはかせたり夜にベッドに寝かしつけたりした。「エプスタインとマクスウェルは、新しい種類の家族を提供することによって、私にたいする権力を強固なものにしていた」と彼女は書いている。「エプスタインが家父長、マクスウェルが家母長(the matriarch)であり、こうした役割は単に暗黙のものではなかった。マクスウェルは、定期的にエプスタインにサービスをしていた少女たちを自分の『子供たち』と呼ぶことを好んでいた」。彼女をエプスタインに結びつけていた感情的つながりは現実のものだった――「正確には愛というわけではなく、正しい言葉は〔領主にたいする〕忠誠であるように私には思われる」。

しかしながら、そうした負債は反転可能なものではなかった。エプスタインは、みずからの家庭のどのメンバーとのつながりも思うがままに切り離すことができたが、同じことができる人間は――とりわけ若い被害者は――ひとりもいなかった。ジューフレイは逃れるためにオーストラリアに移住したが、後々まで彼のことを「死ぬほど恐れていた」。少なからぬ他の女性たちも、逃亡したり虐待を報告したりしたら彼女たちを殺すとエプスタインとマクスウェルに脅迫されたと証言してきた。

4.

エプスタインの「家庭」(household)はサディズムの極致にまで達していたかもしれないが、その政治経済学ポリティカル・エコノミーは、日を追うごとに例外的なものではなくなっている。単独の個人が、政府の助成機関や研究大学よりも大きな額の金を自由にするようになるとき、それが知識生産や学術的関係にあたえる影響は甚大なものになる。同様の波及効果は、億万長者たちの集合的住居が都市経済全体の富を形づくりはじめているなかで、サービス・住宅部門においても見て取ることができる。エプスタインの家庭事業がそのまったくの組織的な複雑さのために特異なものであったことは疑いないが、彼が扶養者たち〔従属者たち〕のあいだに引き起こしていたたぐいの属人的な義務感や債務状態は、いまや億万長者の家庭経済の標準的な特徴となっている。

こうした洞察は、#MeToo運動が現在の保守的バックラッシュのサイクルのなかで演じている媒介的な役割を明らかにすることに役立つ。近年、トランピズムの極右へと突然の転向を経験してき男性たちは、政治的立場を問わず、いちいち追跡することが難しい〔ほどたくさんいる〕。みずからの心がわりについて説明するように求められると、彼らは、世界史的な崩壊の感覚を引き起こすにはあまりにも些細(あまりにも馬鹿々々しいと言うのでなければ)であるように見える性的危害の逸話を繰り返し指摘することになる。この明らかな〔認識の〕不一致は、#MeTooがそもそも映画産業という特定の部門を起源としていたことを思い出せば、ますます筋の通るものとなる――私的なアート映画スタジオという高度に属人化された世界である。ミラマックスとワインスタイン会社の共同創設者であるハーヴェイ・ワインスタインは、所有者=マネージャーがそのスタッフや顧客へのチェックを受けない権力を与えられるという、特異な様式の創設者支配のパートナーシップの産物だった。#MeToo運動は、彼らの結び合わされた性的権力と経済的権力にたいする直接的な攻撃を意味していた。エプスタインとワインスタインが友人同士であったのも驚くことではない。あるいは政治的な立場を問わず、男性たちが#MeTooの高まりなかで性的暴行の申立てに対処する際のアドバイスを求めてエプスタインに連絡を取っていた、という事実も。

エプスタインの世界への洞察が増しているおかげで、現代の極右における心理的・経済的なロジックについて、より明瞭な見取り図が手に入るようになってきた。エプスタインがその女性の被害者たちにとってのあらゆる脱出ルートを閉ざそうと欲していたのとまったく同じように、トランプとその仲間のテック反動勢力は、家庭経済にたいするあらゆるオルタナティブを遮断し、大統領職を創設者支配の家族企業へと作り変えることを欲している。行政的国家、公共セクターおよび労働組合への攻撃、そして国境コントロール職員を個人的な民兵へと変容させようとする作業は、主人と使用人の規則を経済全体に拡大しようとする、より幅広いプログラムの一環として理解することができる。もしかして、私たちがみなウーバーの運転手に、アマゾンのサードパーティー販売員に、不動産の大物の取引請負業者に、あるいはアカデミアにおける億万長者への嘆願者になったとしたら、創設者たちは集合的な犠牲から安全になるとでもいうのだろうか?

エプスタインの被害者たちは、主人と使用人の規則を、単に経済的暴力としてだけではなく、性的暴力としても経験した。彼女たちは、出現しつつある現在の政治秩序に名前をつけ、それに抵抗した最初の人々なのだ。

メリンダ・クーパー(Melinda Cooper)は、オーストラリア国立大学の芸術・社会科学カレッジ教授。彼女は『反革命:公共財政における濫費と緊縮(Counterrevolution: Extravagance and Austerity in Public Finance)』(2024年)と『家族の価値:新自由主義と新社会保守主義のあいだで(Family Values: Between Neoliberalism and the New Social Conservatism)』(2017年)の著者(ともに未邦訳)。

翻訳:中村峻太郎

©Equator 2026, republished under the permission of editorials.

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公開日:2026年3月26日


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